横光利一の短編「機械」を、時間をかけて読んでゆく。 なるべく時間をかけて…結局かけた時間は、なんと11年。 (他のレビュアーの方によれば、さすがに1回の通読に11年というわけではないみたい)
…おもしろい。 思えば印刷技術によって紙の上に書かれるようになるまで、物語は人から人へ語られ、 その都度少しずつ内容を変えてゆく一回性のものだった。
書物の誕生によって物語は初めて反復可能になって、私たちは物語を読む「現在」を繰り返すことができるようになったわけだけれど、 さらにはその「現在」を引き延ばすことだってよく考えればできるのだ。
そして宮沢章夫は11年以上の長さに「現在」を引き延ばす。 「機械」に描かれるネームプレート製作所での出来事は、時間の経過が具体的な数字で示されないとはいえ、 せいぜいが1年くらいの期間内におさまると思われるのに対して、 読んでる側はその間に11年という時間を生きているのだ。
つまり相対的にはこちらの時間が動いていて、物語の時間のほうが止まっている。 物語を生きる自分が物語以上の速さで動いている。
物語を読む「現在」と物語のなかの時間の関係がなんだかぐらぐらしてくる。 でも実は紙に書かれたときから物語はこういうぐらぐらを内包していたんだなあ、といまさらながら気づかされた。
このぐらぐら感を本当に実感するにはたぶん11年にわたったこのエッセイの連載をリアルタイムで読むのが一番なんだと思う。 でもぐらぐらの擬似体験はできます。
なにしろ宮沢章夫なので、ときどきはくすっと笑ってしまう。 一緒に「ぐずぐず」できる本。
表題作でもある『春は馬車に乗って』を「小川洋子の偏愛短篇箱」
で読んで以来気になっていた作家横光利一。
少し調べると彼は戦争に関するあれこれで戦後は不遇を囲ったらしい。
その情報を持ちつつ読むと、成る程本書収録の『厨房日記』以降の作品
は愛国主義的なものを感じずにはいられない。
この一冊を読むだけでも、彼が小説を書くことに対し飽くなき探究心を
持っていたんだな、というのが良く分かる。
『機械』なんかとてもあの美しい『春は馬車に乗ってと同じ作家の作品
だとは思えなかった。
私のように『春は馬車に乗って』を気に入り横光に興味を持った人間に
は期待はずれの感もあるかもしれない本書だが、一人の作家の変遷を知
るのには面白い一冊だと思う。
徒らに新奇を追うごとき文芸ジャーナリズムから一歩距離を置いた本シリーズの一書として、横光利一との合本でもいい、中河与一を選んでいることを是としたい。
突出して有名な「天の夕顔」以外は読まれなくなった作家だけに、今回の企画を喜ばざるをえない。この人の文学的原点は、短歌であることを知悉の上、歌集「秘帖」全歌を冒頭に掲載したのは英断であったと思う。小説家にとって、短詩型は余技であるので、作品紹介では重視しないのが普通であるが、普段目にしないものを提示してくれている。
横光との関連で言えば、横光がマルクス主義の文学理論と対立して、形式主義文学論の展開を行った際、これに同調して「偶然文学論」を主張した。本書には、「氷る舞踏会」「鏡に這入る女」などの短編の後に、「偶然の美学」と題する評論が載せられている。平板なリアリズムの不毛性に対する不満と豊かな想像の世界を切り開くものである。
本シリーズ「近代浪漫派文庫」直前の「保田與重郎文庫」の保田與重郎とは、肝胆相照らす仲であるは知る人ぞ知るであろう。日本の伝統的抒情・浪漫性を継承する数少ない人たちである。
中学生ころだったか、教科書に「黒い御飯」が載っていた。
三人の男兄弟の末っ子が、小学校入学前を回想し、父や家族との思い出を語るという作品。
「頬のこけた、髭をはやした顔、そして自分で染め直した外套を着て、
そろそろ、そろそろ、下駄を引き摺るようにして歩く父の影が、私の心へ蘇える。」
ある4月1日、父が突然、家の台所にある釜を使って兄の紺がすりを染め直し、
主人公が新たに学校へ着ていく服にする、と言った。
その翌朝。「綺麗好きの母が、あれ程よく洗った釜で炊いた、その御飯はうす黒かった。
うす黒い御飯から、もうもうと湯気が上がった。
『赤の御飯のかわりだね』
誰かがそんなことを云う。」
国語の先生が「この『赤の御飯のかわりだね』がもつ意味を、よく考えてください。」と言ったのを今でも覚えている。
「黒い御飯」は、文庫本でたった6ページの小品。
だが、表題となった「黒い御飯」についてのくだりは最終ページまで出てこない。
読者は表題を知っていても、内容との関係がつかめないまま読み進むことになる。
ほかにもこの作品集には、表題の趣旨が最後の方まで読み進まないと出てこない作品が多い。
「菜の花」「往来」「朝霧」…
それらの作品は読み進めるうち表題が何だったかも忘れてしまうが、
ある瞬間、「ああ、こういう意味で、この題がついてたんだ」と、ぱあっと広がる瞬間が来る。
読者はそこで文字通り“膝をうつ”。読者の心を掴んで持って行く描写力は本当にうまいと思う。
あと、この作者がうまいと思うのは、会話の描写。
簡潔だけど、人物がちゃんと描けている。
「往来」の、主人公と妻と2人の幼い子どもの会話は、無駄な記述がなく、
本当に実在の家族の日常会話を切り取ったように新鮮で、それでいて小説の味も十分出ている。
最近の作家も少し、永井龍男作品から会話描写の術を学んだほうがいい。
店頭でタイトルにすっとひかれ、編者が「クリック」の佐藤雅彦さんだったので
すぐ決めました。期待を裏切りませんでした。
教科書に載っている話ってどうして面白いんでしょう。
お父さんから手紙を受け取る話、どばどば泣きました。
「ベンチ」では衝撃といっていいほどの読後感を覚えました。
「教育」を目的として選ばれた小説ですから一線を踏み外さない
内容ではあると思いますが、それぞれが不思議な力にあふれたお話だと思います。
ちなみに自分が学んだ教科書小説で一番印象に残っているのは宮沢賢治「やまなし」です。
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