先日レビューさせていただいた中学校の部に引き続き、高等学校の部の聴後の印象について投稿させていただく。
今年の課題曲のテーマは「いのち」。高等学校の部の課題曲はテーマ題そのままの曲名「いのち」。作曲は近年合唱曲の名作を 精力的に送り出す人気作曲家である鈴木輝昭、歌詞は現代詩でやはり人気の高い谷川俊太郎のコンビ。二人は過去何度となく タッグを組み、合唱の名作を数々生み出してきた名コンビである。鈴木氏の得意分野である複雑な和声を駆使しながらも各声部 の掛け合いや終盤へのクライマックスの盛り上げ方、ピアノ伴奏の活かし方等、普段鈴木氏が創る曲よりは若干難易度を落とし ながらも、谷川氏がことばにした全ての生命の平等さ・尊さを見事な楽曲に仕立てた名曲だと思う。
一方各学校の実力の発揮し処の自由曲だが、今年は何故か鈴木輝昭氏と彼の師匠である三善晃氏による合唱曲を自由曲に選 択する学校が目立った。11校のうち2組(4校)は自由曲が被っている。難易度が高くチャレンジし甲斐があること、演奏映えがする こと等の理由で偶然集中したのだろうが、聴き手としては海外の新曲も含めてより幅広い選択肢から選んで欲しい想いがした。
本盤に収められたのは各ブロックを選抜された強豪11校全22曲。高校生にもなると合唱活動もサークル単位で本格的に取り組む 学校が多いせいか、全国の参加校から選ばれた11校は共に非常にレベルが高く、もはや金賞受賞校〜優良賞受賞校までほぼ実 力的には横並びと言ってよい印象を受ける。昔の様にピッチの正確さのレベルで順位が決まる段階では無く、ピッチの正確さ・発 声の基礎等は完璧に身についているのが前提のもとで、音楽表現の部分でどれだけ曲の真髄に迫れるか、また各合唱団の個性 にどれだけ見合った自由曲選択をしているかで明暗が分かれるレベルまで上昇している、そんなコンクールのレベルの上昇が明 確に全国大会での演奏に表れている、そんな印象だ。
その中で印象に残った演奏を一部述べておく。 接戦の全国大会を制したのは福島県立安積黎明高。旧安積女子高時代に過去Nコン8年連続金賞を受賞した合唱の伝統校。今 年の自由曲は安積女子高時代に当時の教師菅野正美氏が鈴木輝昭氏に作曲を委嘱した2集から成る大組曲「女に」からの2編。 過去同名の選曲でNコン金賞を受賞しており、当時の先輩方への挑戦といったところだろうか。菅野氏の時より若干硬質な表現と なっているが、現在の団員の持ち味を見事に発揮した素晴らしい演奏だった。 銀賞受賞の杉並学院高は混声合唱団だが、プロの合唱団にも劣らない男女声の安定感・柔らかな発声と丁寧な表現は見事だ。 特に自由曲「木とともに 人とともに」は彼らの個性をうまく発揮した清々しい演奏で鳥肌が立った。 そして個人的に注目したいのが、今回全国大会初出場で見事銅賞を受賞した豊島岡女子高。ここの女声独自の柔らかさ・丁寧な 発声を最大限に発揮した課題曲「いのち」の演奏は出場校の中で最も気に入った。また割と自由曲に新曲が並ぶ中、三善晃の19 62年の古典合唱組曲「三つの抒情」からの選曲も彼女達のカラーに絶妙に嵌った名演奏だ。何処か菅野氏時代の旧安積女子高 を彷彿とさせる女性固有の艶ある柔らかい表現は魅力的で、来年以降の活躍が楽しみ。 その他緊張したであろうトップバッターでありながら、松下耕によるドラマチックな合唱ワルツ「詩人の最後の歌」での力強い表現が 圧巻な香川坂出高や、高嶋みどりのクラシック「霧明け」での丁寧な発音と清らかさが印象的だった宮城三桜高等、各合唱団のカ ラーにうまく嵌る自由曲を選択した学校群の演奏に特に心を打たれた。
年々レベルを上昇させるNコン高等学校の部、来年はどの高校が栄冠に輝くか早くも楽しみだ。
著者はいうまでもなくキツネ目の男ではないかと言われた宮崎学氏である 「自己啓発病」というフレーズは言い得て正鵠を得ていると思う 日本における自己啓発は個人の抑圧の功利主義であるという 著者の見解に僕も同意する 著者は、サミュエル・スマイルズの誤読による広まった理解が日本の「自己啓発病」をさらに悪化させているとも言っている 著者によると日本の「自助論」(竹内 均 訳)という三笠文庫はサミュエル・スマイルズの「西国立志編」は抄訳であり 訳者の都合のいいイデオロギーによって偽造された産物であるとオリジナルの「西国立志編」を読み、「西国立志編」には 「自助論」で割愛された芸術家の生き方が「西国立志編」の醍醐味であり、勝間和代が説くような軽薄な自己啓発書ではないと言っている できれば、「西国立志編」と併せて読むと日本の「自己啓発病」に対するうそくささが明瞭になってくると思う 西国立志編 (講談社学術文庫) 何事もオリジナルに触れることの大切さがわかる本でもある
『週刊朝日』の「ハシシタ 奴の正体」の記事に対する、TVコメンテーターの歯切れの悪さ、文化人の鈍感さにはがっかりしていた。まるで、「橋下徹を叩くためなんだから何やったっていいじゃないの」というような感覚だ。そんな時に手にとったのがこの本。ジャーナリズムの劣化にも切り込んだ二人の対談は、抜群に鋭い切れ味。橋下徹に対するキャンペーン記事のどこが問題なのか、的を得た指摘も、腑に落ちた。とくに、中上健次を敬愛するインテリたちの「勘違い」にも言及している部分は一読の価値あり。「橋下は好きじゃないけど、この週刊朝日記事はどうなのか?」と迷っていた人とも、この本の面白さで、意見が一致した。
ノンフィクションであるので、共有したこの15年を思い出しながら、一気に読ませてくれる。 宮崎学がどう向き合ったかを観ると同時に、自分の課題にすべてタタカイ尽くしたかと己に問いかける一書でもある。 『突破者』から15年、著作などが100冊に及ぶなかで、肉感して取り組むという姿勢は部落問題の取材から一貫した著者の態度である。 戦いのための戦いというマスタベーションではない、本気度が人をして共感を得せしめる。 自分のダンナでは御免だが、男という動物として、女性が興味をもつのもわかる。 「盗聴法が通ったら最初の逮捕者になる」という、そこには負けるとわかってもタタカウ男の美学がある。
突破者・宮崎学に集まる人たちがどんな気持ちで宮崎学をサポートしたのか。 是非、『突破者』を小説で読んでみたい、そんな衝動が起こる。
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