とっても、素敵なアルバムです。
仕事をしながら、毎日聞いています。
特に Pixie は、パリのエスプリが感じられ、
このアルバムの中で一番好きな曲です。
近年日本は「性」を暮しの影の部分とし、表立てず奥ゆかしいのが美徳だった時期が長いように思う。反対に現代ではネガティブな過激な現れ方もしてしまうのだが。
むかし読んだ本では、インドで列車で、車窓から見える田園の景色のなかに、農作業の途上と思しき夫婦の白昼堂々たる性の営みが見えることがあったと言う。 また反対にトルコ映画で「路」という映画では、夫婦が電車内のトイレだったか、やむにやまれぬ抱擁を乗客に目撃され袋だたきにあうシーンもあった。
性の営みなしにぼくもあなたも現世に存在しないのに、なんでぼくら恥ずかしいんだろ。 ぼくらは恥ずかしいことから生まれて来たんですか?
この映画には「死」に対しての楽天的な態度というものも感じられる。これがもうひとつのこの映画の持つ魅力だが、「性」と「死」はセットとして語られることがゲージツでは常識だ。
死後硬直をしている師匠の死体と弟子たちの肩を組んでの「死人のカンカン踊り」を観て、つげ義春の同じシーンのまんがのひとコマを思い出した。 死は生のなかにあって存在を主張する。もっと馴染むべきものなのかも知れない。
「寝ずの番」は、長年役者としての経験が伊達ではないマキノ雅彦監督の愛情が各所に感じられ、それはとくに各出演者たちの魅力を引き出していて、さすがに自ら役者さんならではの愛情あふれる映画作法。ドラマとしてはテレビサイズだが、たぶんテレビでは放映できないのは挑戦的。R15指定というのがすでに笑いがとれる。心配ない、観客席は半世紀を行ったり来たりの人脈だ。 映画の発端、死に逝く師匠にスカートをめくり「おそそ」を魅せる木村佳乃のシーンに、けっこう感動したワタシは現世を半世紀過ぎた。 下品という文化の伝統の、気高き貴い意味がここにある。
マキノ雅彦第1回監督作品。マキノ雅彦とは、“日本映画の父”牧野省三(マキノ省三)を祖父に、生涯に261本の映画を監督したマキノ雅弘を叔父に持つ俳優、津川雅彦のこと。
原作は一昨年に亡くなった中島らもの同名小説。
監督の実兄である長門裕之が、上方落語の重鎮、笑満亭橋鶴役で出演している。
その橋鶴が、危篤状態になるところから物語が始まる。
弟子達は、師匠の最後の望みを叶えてあげようとするが、あろうことか、その最後の願いを聞き間違えたことから、ひと騒動が持ち上がる。
でもその後が本番。師匠が亡くなり、通夜が執り行われる。一晩中、寝ないで死体の番をする、それが『寝ずの番』らしい。
橋鶴のかみさんである志津子ねえさん(富司純子)と息子でやはり落語家の橋弥(岸辺一徳)、弟子の橋次(笹野高史)、橋太(中井貴一)とその女房(木村佳乃)、橋枝(木下ほうか)、橋七(田中章)とその女房(真由子(津川雅彦の娘))、落語作家(石田太郎)、よくわからない親戚の一般人(蛭子能収)らが、酒を飲みながら、師匠の思い出話に花を咲かせる。
最初の聞き間違いからして、この思い出話ももちろん、全編もう下ネタのオン・パレード。ビジュアル的にはエッチなシーンはないけれど、テレビでは放映できないんじゃないかしら。放送禁止用語の『ピー、ピー』ばっかりで、意味がわからなくなるでしょう。だからテレビでは観られないかも知れません。
で、一つひとつの思い出話が、おもしろい。流石上方の落語家。生活全てが落語的。話す方も落語家(もちろん本当は俳優だけど)だから、全ての話にオチがある。気持ちいい。僕も関西育ちなので、オチがない話は嫌いだ。
寝ずの番は1回で終わりではない。その後も2回、都合3回、寝ずの番が繰り返される。
そして、話すほどに、エスカレートしていく思い出話に歌に踊り。
よく画面を見ていると、いや、それほどよく見ていなくても、変なことが起きている。どれもこれも笑いの連続。
笑って楽しむエンターテイメント作品です。自分もこういう通夜に同席したい。自分の通夜は遠慮したいが……。
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