緒形拳の「戸惑いと躊躇い」の表情が、僕は大好きだった。
1993年、「ポケベルが鳴らなくて」の
緒形拳と裕木奈江が共演したテレビドラマで、50歳の男と21歳の女性との甘く危険な恋の物語、緒形の演技に魅了された。
2008年10月25日、NHKテレビ「アーカイブ」で放送された1965年の「太閤記 第42回 本能寺」を観た。7歳の頃の記憶が甦る。
緒形拳の演技力に魅了され、この『恋慕渇仰(れんぼかつごう)』を手にした。
紅葉 P11〜12
書いて書いて書き抜いていくと、余分な葉が落ちるように骨になっていき、冬の
紅葉のようになる。
演技もそうありたい、そう思っている。
壺 p65〜66
死ぬということは残った人の中に生きるということだ。
自分の中に、逝った人々を生かし続けるということだ。
男のカッコ良さを教えてくれた名優・
緒形拳の言葉が語りかけてくる貴重な1冊である
ハガキの小さな紙面には、多くの文字はないが、その数少ない言葉が緒形流の文字でかかれ、あふれる想いは絵や貼り絵にも表されて見る者に何かを感じさせてくれます。それは
緒形拳のうちからにじみ出る、大きなものなのだと思います。
著者は20年、
緒形拳に寄り添うようにして話を聞き取り、一冊に
仕上げている。急いでインタビューしたものとは違ってインタビュアー―インタビュイーの信頼感があるのはさすがです。
原点としての「新国劇」への注目も正鵠を射ています。ゲスでない、独特の品のある大衆路線は緒形を際立てるものでした。
問題は二つ。ひとつは、宗教や思想というものへの掘り下げ方が浅いこと。熱心な大日本獅子吼会の信者だったことは、死後にクローズアップされたのであり、なおかつ本人もみだりにかたらなかったから無理はないのですが、『復讐するは我にあり』の裏側から照射したカトリック信者(榎津)や、やはり熱心な日蓮信者である北斎(『北斎漫画』)などの造形に無関係とは思えません。さらに、浅沼委員長刺殺事件での周囲への違和感は、貴重なエピソードですが、『ケイトンズヴィル事件の九人』での
ベトナム戦争反対、『出雲の阿国』での労働と芸術の関係如何という有吉佐和子独自の問いかけの問題など、もっと話を聞いておいてほしかった。もうひとつは、テレビについて以外と総括的にしか扱えないこと。これは本数が厖大なわりに、ビデオが残ってないという資料的制約もありますが、巻末の出演リストから、
ブラジル移民70年記念の日本テレビ「希望の大地」が抜けていたりする。ぜひ、増補版では補って欲しいところです。
今で言う性風俗産業の女性たち(芸者?というより花魁と言えばいいのか)の物語。池上季実子と浅野温子が水浸しになりながら、ものすごい喧嘩をするところは見物。
五社英雄という監督は、あくまでも「商業映画」を作る人と見なされていたせいか、今ひとつ評価されていなかったようだが、いわゆる花柳界の着物姿の色っぽい女性達や彼女達の生活描写は大変華があって良かったと思う。あのように鮮やかな撮影の仕方をする監督が他にいるだろうか。商業映画=エンターティメントで大いに結構ではないか。世界中で愛されている
ハリウッド映画だって皆エンターテイメントではないか。