老怪と呼ぶしかない存在となった親との暮らしを書く。
圧倒的なリ
アリズム。介護が日常にならざるをえない妻(ヨメ)に比べ、仕事を理由にたまにしか手を汚さない実子(主人公)の視点はどこかのんびりした印象がぬぐえない。
テーマは重いが、作者の筆力にぐいぐい引かれて一気に読み終えることが出来ると思う。
老怪と呼ぶしかない存在となった親との暮らしを書く。
圧倒的なリ
アリズム。介護が日常にならざるをえない妻(ヨメ)に比べ、仕事を理由にたまにしか手を汚さない実子(主人公)の視点はどこかのんびりした印象がぬぐえない。
テーマは重いが、作者の筆力にぐいぐい引かれて一気に読み終えることが出来ると思う。
わたしはこの映画をタイムリーで劇場で観た。もし、印象を書けと言われれば、池波正太郎が「銀座日記」で書くように「主題も重厚だし、演出も素晴らしいと思ったが、先ごろ母を亡くし、老年に達したじぶんにとって、この映画の後味が、たのしいというわにはいかなかったのは当然だろう。」というほかない。私の祖母もボケていった老人の一人だった。一緒に
ニューヨークに行ったときも、
ナイアガラの滝を見たときも、もうそこがどこかわからなかった。むかし、都城から遠く遠足に行ったときのことや呉服屋の娘で優雅な日々を送っていたことはいくらでもでるが、夕食を食べたのも忘れ、家の外へ出てしまい警察の方が家に連れてきてくださったこともあった。なにより、便意を覚えたときに便所でどのようにすればよいのか忘れ、手で拭いたこともあった。
そういった人間と暮らしたものにとってこの映画は忘れられないものだ。とくに、息子の一言、こうなったら人間とはいえない動物のようなものだ、という言葉は忘れられない。よく、介護をしたことのないひとが人間の尊厳などということを平気で軽々しく口にするが、この映画が持つテーマは20年近い歳月が過ぎた現在いよいよ大きな意味を持ってきている。政府は老老介護の現状をどう見ているのか、役人は数字をコンピューターで計算するよりも、そこにある現実をどう理解するのか、そこには国家の品格も見え隠れしている。
老いによって重度の認知症に罹ったタツは、時折、心が青春時代に返る。性に目覚め始めた少女のように振る舞う姑に、激しい嫌悪を覚える嫁。一方、タツの息子・依志男は、介護の際に老いた母の裸を目にしたせいで、若い女の肌に感じていた情欲を呼び起こせなくなる。老人の性=生への執着が、息子夫婦のそれを腐蝕し、枯らせていく恐怖。
大学生の孫は、あれでは動物と同じだ、施設に隔離するべき、と冷たく言い放つ。その言葉に驚く彼の両親は、そこまで割り切れない事で却って、葛藤と愛憎を募らせていく。老親に向かう、抑圧された嫌悪。それは、自らの義務感と偽善の重みが生む感情なのかも知れない。
‘老い’は、自分自身の現実として身に迫ってこない間は、優しく見守る事も出来る。だが、何かのきっかけでそれが、自身の未来の内へと侵入して来た途端、人はそれに対して、より具体的な感情としての、憎悪を抱いてしまうのか。そうした心の微妙な綾が、殆ど恐怖映画と言えるほど、鬼気迫る演出で描かれている。
劇中で交わされる‘約束’とは、最後まで‘動物’ではなく‘人’として生きる事を願っての約束。しかし人であるが故に、果たす事の出来ない約束でもある。果たせなかった全ての約束は、社会からも現実からも隔絶した、幸福な回想と夢の中でだけ実を結ぶ。
この映画は、水の象徴性に注目して観て頂きたい。揺らめく水鏡に映る、崩れて歪んだ顔や、タツの夫・亮作の失禁、風呂場での或る出来事、依志男が水を吐く場面、等々。老い。死。救済。この全ての意味を、水が担っているように感じる。
一見すると地味な社会派ドラマだが、芯に置かれた主題は、抗い得ない死を前にした人間の、愛や赦し。人の生が最後に行き着く姿を描いた、深遠な物語。