私は温泉めぐりが好きで、この本の存在を最初に知ったのは新聞での紹介記事です。その後、本屋さんでこの本に再会し、実際に開いてみました。すると、歯に衣着せぬ表現で日本各地の名湯がずばり評されているところに大いに惹かれ、即買いました。
100年ほど前の温泉の旅が、当時の世の中の様子とともにここに蘇ります。
この話は花袋であると思われる竹中という男が、女弟子の芳子という女に恋をする。しかし竹中には妻もおり、表面的には庇護者という姿勢を崩さない。それなのに勝手に芳子の恋人に嫉妬する。遠まわしに邪魔をする。妄想する。結局芳子は恋人と不祥事を起こしたため田舎に連れ戻されるのだが、それを竹中は悲しみ、芳子の使っていた布団の匂いをかぐ。芳子のにおいをいっぱいに吸い込む。 ここで話しは終わるのだが、どうだろう。はっきり言ってしまえばただの変な人だ。しかしそこに竹中の悲しさのようなものが感じられるような気がする。とても自然なことのように思えてしまうのはわたしだけだろうか?
「蒲団の打ち直し」の時雄と美穂が、何故か似ても似つかないのに、ほぼ団塊世代の両親のように思えてならなかった…。笑。
この小説みたいに、田山花袋の「蒲団」が書かれた時代と今の時代って、価値観が急激に変わっているまっただ中にいるという点で、意外とシンクロしているのかもしれない。
若者に上から諭すような柔らかい文体が相変わらず不気味な大塚英志なのであるが、東浩紀の
『動ポモ2』など、後のオタク評論に少なからぬ影響を与えたことは、言うまでもない本書。
本書の発端となるのは、キャラクター小説(ライトノベル)のある賞の選考委員が落選作品を
「オリジナリティのなさ」において批判したというエピソード。しかし、大塚英志にいわせれ
ば、その作品だけが保持する本当の意味での「オリジナリティ」なんて虚構であり、登場人物
だってストーリーだって、予めあるパターンの集積(データベース)からの取捨選択による組
み合わせにしか過ぎないのだ。
原作者でもある大塚は、自作をネタバラし的に解体していくことによってそれを論証していく。
自作の構築過程を事細かに叙述しているだけあって、これは説得力がある。
その勢いで大塚は、旧来の「文学」としての「私小説」、その「私」だってキャラに過ぎないと
いうことを白日の下に晒す……が、ここまでくればお気づきの方も多いかもしれない。
これは同じく評論家の柄谷行人が『日本近代文学の起源』ですでにやっていることとまんま同
じなのである(しかも田山花袋『蒲団』だけで「近代文学」を語っちゃうのはムリがあると思う)。
その先行する柄谷の論はしれっとスルーしているのが、この大塚英志という人物が正攻法なのか
そうでないのか、わからなくしているところ。
昔読んでよかったのでまた読みたかった。無料であったのはびっくり。よかったです。
|