初めて十蘭を読むのならば、収録数や解説の充実ぶりから考えても、昨年出た岩波文庫の『久生十蘭短篇選』に軍配を挙げざるを得ない。しかし、本書は現時点で文庫や単行本では読めないものばかりを収録しており、その編集側の配慮は立派である。岩波文庫に比べると小ぶりだが、収められている10篇のジャンルは、歴史物(「無惨やな」「影の人」)、冒険物(「藤九郎の島」)、幻想物(「生霊」)、洋風物(「南部の鼻曲り」「葡萄蔓の束」)、他文献からの引用を基にしている史実物(「遣米日記」「美国横断鉄路」)、そしてミステリー物(「死亡通知」)と多岐にわたり、十蘭の作家としての多様性をまずまず楽しむことができる。
個々の作品に関しては、特に後半の5つ(「藤九郎の島」「美国横断鉄路」「影の人」「その後」「死亡通知」)がどれも特徴的ですばらしい。「藤九郎の島」はちょっとしたロビンソン漂流記だし、「美国横断鉄路」は十蘭のなかでも異色作かもしれない。最後の「死亡通知」は本書の中で一番長い作品(約50頁)である。この佳品の後半部を読んでいて既視感を覚えたのだが、あとでよく調べてみたら「水草」という別の作品がほぼそのまま組み込まれていることが分かった。この「水草」は数ページの長さしかない超短篇で、『日本探偵小説全集<8>久生十蘭集』(創元推理文庫)などに収められている。「水草」が昭和22年発表、一方「死亡通知」は昭和27年発表である。この5年間のうちに、十蘭はこの小品を再度練り上げることにしたのだろう。このような作法は、例えば現在絶版の『怪奇探偵小説傑作選<3>久生十蘭集』(ちくま文庫)に収められている「ハムレット」とその原型になった「刺客」の関係にも見られ非常に興味深い。そういう比較ができるのもまた十蘭を読む楽しみの一つである。
日本の誇る最高の小説家のひとり、久生十蘭の作品がひじょうに入手しにくくなっているようで、悲しむべき状況と思います。 そんな中で、手に入る数少ない本の一冊が本書。「異端」や「怪奇」などの形容詞つきで語られることが多い著者ですが、一語たりとも無駄のない緊密な構成、飽きさせないストーリー、様々に張られた伏線、読むたびに異なる読後感、驚くべき博識、・・・ 小説家として当然なこれらの資質と努力、決して妥協をしない姿勢が、昨今ではあまりに当然でなくなったため、「異端」呼ばわりされる憂き目にあうのかもしれません。 「日々をさりげない視点で描いた~」とか「瑞々しい感性で~」とかのどれも十把一絡げな昨今のエセ小説、使い捨てカイロ的などうでもいい小説に飽きた方には、本書を読めば、小説のおもしろさを再認識されることは間違いありません。 著者の代表作ばかり集められているので、いつ、どこから読んでも楽しめます。倣岸不羈な明治貴族の純愛を描いた「湖畔」、母を絶望的に思慕する「母子像」、家族愛への渇望がテーマの「虹の橋」、奇怪な動物磁気学による「予言」、ハリウッドも真っ青の驚くべき「地底獣国」、きわめつけは、3ページ程度とはとても思えない強烈な密度、硬度の「昆虫図」以下の三作。 ホンモノの小説ここにあり、です。
現在刊行中の久生十蘭全集はコレクター向きの値段で、一般人にはそう簡単に手を出せるようなものではない。かといって、これほどの作家ならばもっと読まれていいはずだ。ならば、現在手に入りやすい短篇を除いて、比較的入手困難なものを集めた短篇集を出して行こう。もし河出文庫の気概がこれくらいのものであるならば、私は本書をもう二冊くらい買って応援する用意がある。そして、さらなる短篇集を期待したいところだ。
昨年同文庫から出た『ジュラネスク』には短篇が10篇収められていたが、今回の文庫には12篇が収められている。値段を考えれば、良心的な数である。また、12篇とも30頁前後の長さで、うまく並べたものだと思う。バランスが非常に良く、リズム良く読み進めることができる。また、これらの短篇群は、他社の文庫に入っている作品とくらべると、やや地味かもしれない。ところが、丁寧に読んでみると、どれ1つとして緩慢な作品がないということに気づかされる。このことは、十蘭作品の質の高さを物語っているといってもよいだろう。
個人的には、「雲の小径」という作品が傑出していると思った。まず、冒頭の2段落(231頁)が絶妙である。十蘭は、この冒頭部分に、ほぼ同じ意味合いの「曖昧」「模糊」「濛気」「溷濁」という4つの言葉を意図的に配置し、このあとの展開で夢と現実のあわいが文字通り曖昧模糊になることを予兆する。読者はここを読み、十蘭の語彙の豊富さにまず驚くことになる。さらに、この短篇を読み終わる頃には、この冒頭部が周到に準備された演出であったことに気づき酔うのである。その意味で、この作品は、高い芸術性(言語表現の巧みさ)とエンターテイメント性(小説の面白さ)が見事に融合された好個の例であるといえよう。また、それが久生十蘭の文学なのだということもできるだろう。
この短篇には、もう1つ別の魅力がある。よく知られているように、十蘭には改稿癖があり、かつての作品を手直しして別の題を付けて発表したり、その一部を別の作品に織り込んで違う作品にしてみたりということを頻繁に行った。「雲の小径」も、そういう作品のひとつだろう。例えば、話の設定が「大竜巻」という別の短篇に酷似していたり、これまた別の短篇である「花合せ」にあった男女のセリフ(163頁)のある一部がほぼ同じ形(245頁)で使われていたりするのだ。このことは、十蘭文学の創作の秘密をかいま見れるという点で、ファンにはたまらなく楽しい読書体験を提供してくれる。また、この3作品を同じ一冊に配列したというのは、まさに出版する側の編集の妙である。
拙僧、世に生を受けてはや八十年 復員してまもなく十蘭の作品と出遭い、涙したあの頃を思い出す
十蘭と申されるこの方は正真正銘の美文家で さらに誰にも真似ることのできない自身独特の文章スタイルを持つ 唯一無二の作家である 今の十代二十代の人も是非触れて欲しいと願う
1934年の大晦日から1935年元旦までの二十四時間の間に起きた、
失踪した安南皇帝と彼が所持するダイヤの行方をめぐる大騒動。
のちに、荒俣宏『帝都物語』にも大きな影響を与えた
という、都市小説、ナンセンス・ミステリの怪作です。
海野弘氏は、作中のヤクザの市街戦は、1925年に 起きた
〈鶴見騒擾事件〉がモデルだと推定し、以下のような解釈を
示しています。
〈(十蘭は)安南帝のダイヤ事件を表層に張りめぐらし、その下に、1925年の
鶴見事件を埋めこんだ。それはヤクザと土建業とコンツェルン、そして政財界
全体がつながっている政治陰謀小説であった。
だが、さらにその下にもう一つの底があったのだ。それが二・二六事件下の、東京の
アンダーワールドの物語である、と私は想像する〉(久生十蘭 『魔都』『十字街』解読)
武装した兇徒が皇帝を補禁し、その上、丸の内という特別の地域で、その武装した兇徒が
警視庁に機関銃で立ち向かっていること、それが二・二六事件の見立てであるというのです。
軍部による独裁が行われていた当時、こうした大胆不敵な執筆意図を持って
本作が書かれていたのであれば、久生十蘭とは、じつにおそるべき作家です。
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