民俗学の本が好きな人よりも、三國連太朗さんが好きな人にお薦めでしょうか? 特に目新しい事は書かれてはいません。 面白いと感じたのは三國連太朗さんが語る自身の経歴です。 「波瀾万丈」という言葉がピッタリときます。 沖浦さんの歴史観や思想は、今では死語となりつつ「戦後民主主義の進歩派」と思われるので、人によっては嫌悪感を感じられるかと思います。 ですが「戦後民主主義の進歩派」が権威化し活力を失って行くなか、社会的な「悪所」とされている某掲示板でその「戦後民主主義の進歩派」が随分と批判されている現状は、沖浦さんの学説を裏付ける結果になっているのは皮肉。
板東妻三郎の王将。大阪の坂田三吉の生き方がようやくわかった。通天閣のみえる下町の将棋キチガイ、三吉が日本一の将棋さしをめざす美しい映画。 村田の歌う「王将」しか知らないぼくにとっては、坂田三吉とその妻小春の夫婦仲の良さは感動モノ。民芸の「瀧澤」が関根八段として出ているのが意外であった。
師匠も持たず、今後の展望もなく、演じてみたい役もない。 常に空っぽの容器のような状態で、仕事のたびにそこに中身を注ぎ、全く新しい人間になる。
祖父は棺桶屋、中学二年で下田の女郎を買い、中退しては銭湯の釜炊き、十四歳で青島に密航しダンスホールの店員、次は釜山で弁当売り、日本に戻っても兵役を逃れるために唐津に逃げた。大陸に渡る直前憲兵に捕まり中国戦線に配属される。仮病を使い続け、前線から逃げて終戦後捕虜になる。連隊で帰還したのは一割にもいなかった。 俳優になってからの女性遍歴、家族との確執、息子浩市との関係。 若い世代は、好々爺とした三國しか知らないだろうが、圧倒的な虚無感に支えられた役者人生の業の深さを、著者は憧れを持って聞き続ける。最近の著者は取材対象への思い入れが強すぎてドキュメンタリーよりも情緒が全面に出てしまい興醒めすることもしばしばあるが、本書は著者が三国の話を聞く喜びを、一映画ファンとして素直に表した姿勢が好感を持てる。
三國に「なんで『釣りバカ』にお出になるんですか」と問いかけた緒形拳もすごい役者だ。
つい先日、天才役者、三國連太郎さんが亡くなった。僕は著者・三國さんの数々の映画を観てきたし、自他ともに認める三國連太郎ファンだ。 〜三國さんといえば多くの女性と浮名をながし、協定を破って他の会社の映画に出演したり、現場で多くの衝突をくりかえしてきた人としても名を知られている。しかし本書を読むと、そのスキャンダラスな人生の色模様にはあまり触れられず、自らの親鸞への興味と探究、そして被差別部落出身であることの苦悩は一見かるいモチーフと文章にかくれている。だが、三國さんは相当に自分の人生に苦しんで生きてきたことが、多くの芸能史や被差別の探究のなかに隠されているとおもう。 〜著者以上に--誤解をまねく言いかたになるが--『我』をとおして生きてきた方はそういないだろうし、その裏側には彼の出自と切っても切り離せない『苦悩』との戦いが本書をとおして語られている。 〜本書の中で知ったのだが、三國さんのお父様はひょっとすると、本当の父親ではなかったのかもしれない事実を僕は初めて知った。それらの苦悩はどれほどのものだったのだろうか・・・・? 没年90歳。不世出の天才役者、三國連太郎さんに深く追悼を申し上げたい。
三時間を超える作品だが そんな長さを全く感じさせない邦画の白眉の一本。
だれもが言うだろうが 俳優がそれぞれ入神の演技である。左幸子が演じるイノセントな娼婦、三井弘二が表現する人の良い置屋の主人、主人公を追い詰める伴淳三郎の咳こむ姿など どれも忘れ難い。敢えて難をつけるとしたら 若き高倉健の その「若さ」程度だ。
そうして 何と言っても 主人公の三国連太郎である。彼が見せる人間の業の深さには 本当の深度が伴っており 見ていても厳粛な思いに駆られる。
こういうすごみのある映画を邦画が持っていた時代があった。これに比べると 最近の邦画は やはり「軽い」のかと思ってしまう。僕自身が 邦画ファンであるだけに 最近の邦画も決して嫌いではない。「軽さ」の中にはそれなりの良い作品も色々ある。そもそも「軽み」とは 松尾芭蕉が唱えた俳句の味わいの一つである。
但し たまには このような「重い」作品があっても良いのだ。ワインに例えることが正しいかどうかわからないが フルボディの赤ワイン一本を一人で飲んだかのような 酩酊感と疲労感を感じる。
日本人が描いた「罪と罰」の話だ。主人公の善悪は最後まで定かではない。というか善でもあり悪でもあるのが主人公だろう。人間だれしも 善悪の二面は持っているが その「幅」の広さにおいて 本作の主人公からは「人間であることの哀しみ」が伝わってくる程だ。それが人間の業なのだと再度考えたところだ。
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