本作『探偵はBARにいる』の魅力、特にストーリーや出演者などについては、もうすでに素晴らしいレビューが書かれていて、またこれからも書く方がたくさんいると思うので、自分は、自分にしか書けないことを書こうと思う。 本作を撮った、橋本一監督の『新仁義なき戦い・謀殺』や『極道の妻たち・情炎』についても、今までレビューを書こうか迷って、結局書かずにいた。と言うのも、そもそも自分は「橋本監督」などと呼ぶこと自体、よそよそしい仲なのである。有体に言ってしまうと、友人である。だからどうしてもひいき目に見たレビューになってしまうだろうし、そんな個人的な目線で書くべきか、迷っていた。でもこの映画を巡って、自分なりに色々感じた事があって、やはり書こうと思った。
この映画をご覧になった方は皆感じたと思うが、本作の魅力は、とにかくエネルギッシュな活劇である、という事と、ハードボイルドであるゆえに、重い人間ドラマが根底にある一方で、独特のユーモアがこの映画のイメージを「陽性の」スカっとするものにしている事だ。そしてそれがまさに「橋本一節」なのである。 「面白いじゃん、この映画!」と思った人は大勢いると思うが、TVドラマ『相棒』の監督、という以上に橋本一を認識している方は極めて少ないと思う。だから自分は「監督・橋本一」について語ろうと思う。
橋本君、という呼び方も実はよそよそしいのだが、彼とは日芸の映画学科で同期だった仲だ。つまり自分もかつては「カツドウ屋」を目指した若造だった。映画学科の学生にも、色々な人間がいるが、彼は昔から東映の活劇路線や必殺シリーズやマカロニウェスタンが大好きで、早い話がお互いに気があったのだ。タランティーノのおかげで、マカロニウェスタンはここ十数年の間で娯楽映画の一ジャンルとして認められたが、当時、映画通の若者たちの間で「マカロニウェスタン!」などと言っても、苦笑されたようなメチャクチャマイノリティーなB級ジャンルだった。そんな中、「きのうの深夜やってた『復讐の用心棒』のロバート・ウッズが・・・!」とか、若山富三郎主演・三隅研次監督の『子連れ狼』シリーズがまだソフトになっていなかった頃、2本立て3本立ての映画館に通って「ついに『冥府魔道』観てきた!」といった話題で盛り上がったものだ。そして彼はいつも満面の笑顔で気に入ったシーンがどう面白かったのか、ジョーク交じりに語るのが実に巧かった。
橋本一は、学生の頃から、ストレートに自分のやりたいジャンルをやっていた男だ。今にして思うとその姿勢は、ロジャー・コーマンやラス・メイヤーといった映画人に通じるものがあった。それは何かというと、学生映画なので当然、お金がない。そして映画学生というのは自分も含めてカッコつけたがる傾向にあるので、金がなくてできなければ、無理やりチープな方法でやるのは諦めてしまう事が多い。でも彼は決して諦めない人間だった。 時間がなければ、ない中でどうすればカット数をかせぐ撮影ができるか、金がなければ、どこまで手作りでできるか、ひたすらチャレンジし続けた。カメラを動かさず、同ポジで撮影してカット数を短時間でこなし、血糊が噴出す仕組みも、闘技場も、全部、手近なものを使って、手作りで作って実現していた。スタジオの中に、木枠と和紙で作った闘技場に園芸用の砂を撒いて、その砂がまた踏み荒らされるたびにどんどん細かく砕けていって砂埃がバンバン舞い上がり、スタッフ一同防塵マスクを着用しながら撮影、スタジオ内を埃だらけにしてしまったのも、今となってはいい思い出である。 あるとき実習で、学校側から渡されたシナリオに「パトカー」と書いてあった。そんなもの調達できる訳がない。ほとんどの学生は、当然パトカーなどカットした。しかし彼は、白と黒の紙を撮影して、その上にサイレンの音を被せて「パトカー」を表現してしまったのだ!授業で上映された時は、場内で爆笑の渦が巻き起こった。しかしそのスピリットは、ラス・メイヤーが『ワイルドギャルズ・オブ・ザ・ネイキッドウェスト』の冒頭で、剣や旗のモンタージュと効果音だけで「南北戦争」を、ガンマンの見た目で牧場内をカメラが移動していくバックに銃声を入れて「OK牧場の決闘」を、キャストを一人も登場させずに表現してしまった方法に通じる、不屈の映画人魂があるのだ。 「どんな状況でも表現する事を諦めない」これが橋本一スピリットだ。 そして、自分たちが映画を目指した20年前、日本映画は「斜陽」と言われ、若者たちにとって映画業界は狭き門、どころかほとんど閉ざされていた。多くの同期が、一人、また一人と映像業界から離れていく中、彼はけっして「諦め」なかった。助監督としての時代は長く、東映の社員でもVシネすら簡単には撮らせてくれない、保守的な業界なのだ。それでも彼は決して諦めずに映画に留まり続けた。だから今、彼は監督であることができるのである。そしてその映画人魂は健在。テレビ時代劇で、いまだに「血しぶき」を飛ばしたり、「ちょいエロ」をやっている監督は、もう他には皆無だろう。
そんな橋本一の監督した『探偵はBARにいる』がなぜ面白いのか、それは「映画」として撮っているからである。昨今の、小説やマンガを映画化したものは、原作のイメージをそっくり実写に再現することばかり考えて、その結果、映画的な面白さを見失ってしまった作品があまりに多い。 橋本一は、あるインタビューで本作について「自分が観たいと思ったものをこの映画にぶち込んだ」と語っている。それはつまり、自分が観客だったら、という意味だ。原作者や出資者やトレンドに媚を売ったものでなく、観客が面白いと思うような映画はなにか。それがこの映画にあるのである。別に、観終わった後、深く何かを考えさえられる作品ではない。純粋娯楽映画である。でも、かつて日本映画が持っていたあの活気を憶えている人なら、きっとこの映画を観て、懐かしいものを感じるのではないだろうか。そしてそれは、昨今はやりの「ノスタルジー」系のものではなく、パワフルでエネルギッシュで笑いもしっかりある、僕らが観たいと思っている「映画」なのである。 いま、日本映画はかつてない好況だというが、多くの映画ファンはその言葉に疑問を感じていると思う。なぜならその多くは、テレビ局が製作した、ドラマを90分に引き伸ばしたようなシロモノばかりで、実のところは若い客が映画館にドラマの続きを観に行っているだけなのではないかと思う。 だからこそ、橋本一のような「映画人魂」を持った「映画」を撮れる監督の存在が貴重なのだ、と言いたい。
劇場で本作の予告編を観た時、ショックだったのは、橋本一の名前が、最後の「その他もろもろ」のスタッフ・キャストの字幕の中に埋もれていたことだった。なぜ東映は、自社の社員監督に誇りを持たないのか。なぜ自信を持って画面のど真ん中に「監督・橋本一」と出さないのか。東映よ。そんな事だからジャリ番に食わしてもらう映画会社になってしまうんじゃないのか。 本作は、幸運にもヒットして、多くの観客に好評だった。そして続編製作も決定したと聞く。おめでとう! 自分もこんな人間なので、当然フツーの会社員などではないが、映画とはほど遠いところで仕事をしている、と言わざるを得ない。だからせめてこいう形で援護射撃をしたいと思い、書かせて頂いた。 次回作の予告編では、「監督・橋本一」と胸を張って叫んでくれ、東映よ。期待してるぞ。
滅茶苦茶良かった! 作品全体がテンポよく、あっというまにラストでした。 大泉さんと松田さんの絡み、大泉さんの泥臭さと小雪さんの上品な美しさ 高嶋さんの演技にもギョッとしました。 原作を読んでいましたので、大泉さんが正直こんなに探偵をうまく演技出来るとは思って いませんでした(ごめんなさい)大泉さんは、天才?努力家?とにかく良かったです。 この凄さを、うまく文章に出来なくて残念です。
DVDにはやくなってほしいです、映画の余韻に浸りたくサントラ購入しました。 音楽も飽きる事なく、浸れるCDで満足!
来年「探偵はひとりぼっち」映画公開か。 札幌に住む独身男性としては感情移入してしまうハーフボイルドの最新刊。ところどころに垣間見える作者のダンディズムが心地よいのは相変わらず。
意外な人物が意外な素顔、というキーワードが複数張り巡らされている一品。
大泉洋さんのファンなので観ました。ですが、相棒役の松田龍平さんはそうでもないです(笑)。監督は「相棒」や「京都迷宮案内」、「忍風戦隊ハリケンジャー」など、主にテレビ朝日系列の作品で活躍している東映の社員監督、橋本一さん。
内容は、基本的にはコメディタッチのハードボイルドです(ラストあたりはすごくシリアスになるんですが)。大泉さんは小洒落た台詞や粋な台詞をナレーションなどで口にしたりしてますが、イマイチパッとしない感じで、主人公というより狂言廻しといった役回りを演じています。全体としては二枚目半といった印象。作品の世界観は、旧ルパンや「COWBOY BEBOP」、「探偵物語」の世界観に近いものを感じました。松田さんは、眠るのが趣味という変わった大学生役を演じていましたが、彼独特の存在感に倦怠感が加わっており、思っていた以上の好演でした。松重豊さんも相変わらず(この人と國村隼さん、大好きです)。舞台は1980年代から現代に変更されていますが、作品からは昭和の香りが匂ってきます。今時の札幌で銃ぶっ放したりしたら、大騒ぎになると思います。「あぶない刑事」とかならまだしもね。意図的なものなのか、それとも予算が足りなかったのか、どちらなのでしょうか?
アメリカのような乾いた土地柄とは違い、日本のようなウェットな土地にハードボイルドというジャンルを着地させるのは並大抵なことではないと思います。今回はある一定の成果を挙げたと思いますが、やはりまだ物足りない。続編に期待することにしましょう。ちなみに、大泉さんが「桑畑三十郎」という偽名を名乗るシーンがありますが、これは黒澤明監督の名作「用心棒」で三船敏郎演じる素浪人が名乗った名前です。
本作『探偵はBARにいる』の魅力、特にストーリーや出演者などについては、もうすでに素晴らしいレビューが書かれていて、またこれからも書く方がたくさんいると思うので、自分は、自分にしか書けないことを書こうと思う。 本作を撮った、橋本一監督の『新仁義なき戦い・謀殺』や『極道の妻たち・情炎』についても、今までレビューを書こうか迷って、結局書かずにいた。と言うのも、そもそも自分は「橋本監督」などと呼ぶこと自体、よそよそしい仲なのである。有体に言ってしまうと、友人である。だからどうしてもひいき目に見たレビューになってしまうだろうし、そんな個人的な目線で書くべきか、迷っていた。でもこの映画を巡って、自分なりに色々感じた事があって、やはり書こうと思った。
この映画をご覧になった方は皆感じたと思うが、本作の魅力は、とにかくエネルギッシュな活劇である、という事と、ハードボイルドであるゆえに、重い人間ドラマが根底にある一方で、独特のユーモアがこの映画のイメージを「陽性の」スカっとするものにしている事だ。そしてそれがまさに「橋本一節」なのである。 「面白いじゃん、この映画!」と思った人は大勢いると思うが、TVドラマ『相棒』の監督、という以上に橋本一を認識している方は極めて少ないと思う。だから自分は「監督・橋本一」について語ろうと思う。
橋本君、という呼び方も実はよそよそしいのだが、彼とは日芸の映画学科で同期だった仲だ。つまり自分もかつては「カツドウ屋」を目指した若造だった。映画学科の学生にも、色々な人間がいるが、彼は昔から東映の活劇路線や必殺シリーズやマカロニウェスタンが大好きで、早い話がお互いに気があったのだ。タランティーノのおかげで、マカロニウェスタンはここ十数年の間で娯楽映画の一ジャンルとして認められたが、当時、映画通の若者たちの間で「マカロニウェスタン!」などと言っても、苦笑されたようなメチャクチャマイノリティーなB級ジャンルだった。そんな中、「きのうの深夜やってた『復讐の用心棒』のロバート・ウッズが・・・!」とか、若山富三郎主演・三隅研次監督の『子連れ狼』シリーズがまだソフトになっていなかった頃、2本立て3本立ての映画館に通って「ついに『冥府魔道』観てきた!」といった話題で盛り上がったものだ。そして彼はいつも満面の笑顔で気に入ったシーンがどう面白かったのか、ジョーク交じりに語るのが実に巧かった。
橋本一は、学生の頃から、ストレートに自分のやりたいジャンルをやっていた男だ。今にして思うとその姿勢は、ロジャー・コーマンやラス・メイヤーといった映画人に通じるものがあった。それは何かというと、学生映画なので当然、お金がない。そして映画学生というのは自分も含めてカッコつけたがる傾向にあるので、金がなくてできなければ、無理やりチープな方法でやるのは諦めてしまう事が多い。でも彼は決して諦めない人間だった。 時間がなければ、ない中でどうすればカット数をかせぐ撮影ができるか、金がなければ、どこまで手作りでできるか、ひたすらチャレンジし続けた。カメラを動かさず、同ポジで撮影してカット数を短時間でこなし、血糊が噴出す仕組みも、闘技場も、全部、手近なものを使って、手作りで作って実現していた。スタジオの中に、木枠と和紙で作った闘技場に園芸用の砂を撒いて、その砂がまた踏み荒らされるたびにどんどん細かく砕けていって砂埃がバンバン舞い上がり、スタッフ一同防塵マスクを着用しながら撮影、スタジオ内を埃だらけにしてしまったのも、今となってはいい思い出である。 あるとき実習で、学校側から渡されたシナリオに「パトカー」と書いてあった。そんなもの調達できる訳がない。ほとんどの学生は、当然パトカーなどカットした。しかし彼は、白と黒の紙を撮影して、その上にサイレンの音を被せて「パトカー」を表現してしまったのだ!授業で上映された時は、場内で爆笑の渦が巻き起こった。しかしそのスピリットは、ラス・メイヤーが『ワイルドギャルズ・オブ・ザ・ネイキッドウェスト』の冒頭で、剣や旗のモンタージュと効果音だけで「南北戦争」を、ガンマンの見た目で牧場内をカメラが移動していくバックに銃声を入れて「OK牧場の決闘」を、キャストを一人も登場させずに表現してしまった方法に通じる、不屈の映画人魂があるのだ。 「どんな状況でも表現する事を諦めない」これが橋本一スピリットだ。 そして、自分たちが映画を目指した20年前、日本映画は「斜陽」と言われ、若者たちにとって映画業界は狭き門、どころかほとんど閉ざされていた。多くの同期が、一人、また一人と映像業界から離れていく中、彼はけっして「諦め」なかった。助監督としての時代は長く、東映の社員でもVシネすら簡単には撮らせてくれない、保守的な業界なのだ。それでも彼は決して諦めずに映画に留まり続けた。だから今、彼は監督であることができるのである。そしてその映画人魂は健在。テレビ時代劇で、いまだに「血しぶき」を飛ばしたり、「ちょいエロ」をやっている監督は、もう他には皆無だろう。
そんな橋本一の監督した『探偵はBARにいる』がなぜ面白いのか、それは「映画」として撮っているからである。昨今の、小説やマンガを映画化したものは、原作のイメージをそっくり実写に再現することばかり考えて、その結果、映画的な面白さを見失ってしまった作品があまりに多い。 橋本一は、あるインタビューで本作について「自分が観たいと思ったものをこの映画にぶち込んだ」と語っている。それはつまり、自分が観客だったら、という意味だ。原作者や出資者やトレンドに媚を売ったものでなく、観客が面白いと思うような映画はなにか。それがこの映画にあるのである。別に、観終わった後、深く何かを考えさえられる作品ではない。純粋娯楽映画である。でも、かつて日本映画が持っていたあの活気を憶えている人なら、きっとこの映画を観て、懐かしいものを感じるのではないだろうか。そしてそれは、昨今はやりの「ノスタルジー」系のものではなく、パワフルでエネルギッシュで笑いもしっかりある、僕らが観たいと思っている「映画」なのである。 いま、日本映画はかつてない好況だというが、多くの映画ファンはその言葉に疑問を感じていると思う。なぜならその多くは、テレビ局が製作した、ドラマを90分に引き伸ばしたようなシロモノばかりで、実のところは若い客が映画館にドラマの続きを観に行っているだけなのではないかと思う。 だからこそ、橋本一のような「映画人魂」を持った「映画」を撮れる監督の存在が貴重なのだ、と言いたい。
劇場で本作の予告編を観た時、ショックだったのは、橋本一の名前が、最後の「その他もろもろ」のスタッフ・キャストの字幕の中に埋もれていたことだった。なぜ東映は、自社の社員監督に誇りを持たないのか。なぜ自信を持って画面のど真ん中に「監督・橋本一」と出さないのか。東映よ。そんな事だからジャリ番に食わしてもらう映画会社になってしまうんじゃないのか。 本作は、幸運にもヒットして、多くの観客に好評だった。そして続編製作も決定したと聞く。おめでとう! 自分もこんな人間なので、当然フツーの会社員などではないが、映画とはほど遠いところで仕事をしている、と言わざるを得ない。だからせめてこいう形で援護射撃をしたいと思い、書かせて頂いた。 次回作の予告編では、「監督・橋本一」と胸を張って叫んでくれ、東映よ。期待してるぞ。
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