ピストルズといったら、ライブなどではとにかく下手な演奏(とくにシドのベースなど)。 グレンは自分のテクニックを披露してたりしましたが、基本的に下手な演奏というとこからくるスリリングさが売りだと思います。 なので、間違えろと言ってるわけではないんですが、このスコアどおりの演奏だとあまりにかっこよさが失われてしまうと思います。 特にボーカルは真似しないでください。 前にこのお手本どおりにやってものすごくかっこ悪かったボーカルがいました。。
「息ができない」という意味の原題は、「海も山も都会も田舎も好きじゃなかったら息ができない」と最初に車のなかで銃を振り回しながら口ずさむベルモンドの自由への旅立ちの言葉。「空気が足りない」と言って殺しを犯したラスコーリニコフ(ドストエフスキー『罪と罰』)や「太陽のせい」と往って不条理な殺しを犯したムルソー(カミュ『異邦人』)に習って、ミシェールもきちんと警官殺しをやってくれる。 パリでの撮影はハンドカメラによるお手軽ロケみたいなシーンばかりで、ハリウッドもののように室内に三脚を立てて撮らないのだな、と思いながら見ていた。それはやはりパリが絵になるからなのだと思う。モノクロの映像の中でも、凱旋門を中心とした道路とそこを行き来する車の流れ、建築物の荘!重さ、夜のヘッドライトの流れと瞬き……ゴダールはやはり、とことん映像作家なのである。 ミシェールは生まれついての犯罪者であり、それがロミオとジュリエットのように国籍も育ちも、住む世界も違う、そんな娘に惚れちゃったばかりに悲劇を呼ぶという、何となく説明のつく落ち着きのいい話になっていると思う。女性に惚れ、女性に棄てられると死を選ぶ。無軌道というよりは、すべてか無、生か死かの世界だ。あまりにも刹那的で明日なき世界。孤独でやるせない物語なのだ。 ハンフリー・ボガートに憧れ、ルノワールには目もくれない。音楽は嫌いだが、女は好きで、始終煙草を吸っては煙を吐き出して空気をかきまわしている。これじゃあ息ができないわけだ。言葉と映像のキャッチボールがとても面白い!というのも、ゴダールの特徴みたいである。
ヌーヴェル・ヴァーグの代表作として知られる作品です。 簡単に調べてみますと、ヌーヴェル・ヴァーグとは、1950 年代から 60 年代にかけ文学的要素でがんじがらめにされていた映画文化に対して起こった、監督を映像作家として捉え豊かな映像表現を求める作家たちによる映画運動、らしいです。
そういう背景をふまえて鑑賞しますと、確かに演出や音楽がとてもお洒落でした。 複数テイクを切り貼りしたようなリズムのおかしい、でも不思議と格好良く思えてしまう映像が印象に残っています。
物語ははっきり言って殺人的につまらないです。中身がないので眠くて退屈。 BGV なんかで流したら良いんじゃないかとおもいました。
実際この中のフレーズを使ったところ大笑いされました。
ミッシェルの台詞は気障でパトリシアはそもそも英語訛りで文法に所々間違いあり。
映画自体新しい試みだったのでフランス語の勉強という訳には行きません。
というかゴダール全般そんな感じです。
この映画がすごく好きな人しか読んでも面白くないでしょう。
ブルーディスクで出たので購入した。20数年ぶり通算3度目の鑑賞となった。 中学生から映画好きで、傑作ということで大昔、期待して見た記憶がある。 当時の感想も、今までにないようなテンポで斬新な映画との印象はあるが、ストーリー自体はありきたりで、 今回の鑑賞も見終わった後の印象は同じであった。 しかし、あのゴダールが映画的テクニックは斬新だが、おしゃれなセリフを散りばめただけの映画を撮るとは思えなく、少し考えてみた。 そしてこの映画は主題は、結構単純じゃないかと思い当たった。 ゴダールは左翼である。資本主義には迎合しない。 そしてこの映画の主人公は「アホなフランス男」と「自分の事しか考えないアメリカ娘」。 単純な構図であった。資本主義の象徴としてのアメリカ娘。 だからアホなフランス男は娘に振り回されて、裏切られて、最後の最後に「うんざりだ」と言う (以前の字幕は「最低だ」だったような記憶が・・・・この解釈にはこっちの方がふさわしいのに)。 そしてだめ押し的に警官が娘に向かって言う「あんたのことだよ」と。 この言葉はゴダール自身がアメリカに向かって発した言葉なのかなと・・・。 この映画は、テクニカル面での賛辞ばかりで、他は「かっこいい」だの抽象的な論評しか聞かないけど、 ゴダールは本当に、そのような表面的なだけの映画を撮ったのだろうか? ゴダールが口を開くとはないだろうから、推測するしかないのだけど。 自分の解釈にも100%の自信はない。破綻している点があればご指摘、大歓迎である。
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