松下政経塾の出身者を中心とした地方自治に携わる政治家が、地方自治のあるべき姿について語っている。講義録を中心にまとめているので読みやすい。学者の本とは違って厳密さに欠ける部分はあるかもしれないが、改革の当事者の言葉はやはり重い。
昨年3月の大震災、宮城県は海岸線総てを大津波に襲われ、一万人以上の犠牲者を出した。愚生も鑑定作業の依頼を受け、直後から名取・石巻・気仙沼を訪ねたが、想像を絶する惨状に記憶が飛んだ時期がある。 本著者・村井嘉浩知事は、地震発生十数分後には自衛隊へ救助を要請し、十日足らずで塩釜港を復旧させて燃料輸送航路を確保した。発生後十日間は県庁に泊り込んで被害状況の把握に務め、招集した対策本部会議は全て公開している。被害の割に燃料や食料の運搬が円滑だったのは、村井の大局的判断に負うところが大きい。幹線道復旧の順位付け、医療スタッフの効果的配置、ボランティア受け入れの一元化等々迅速かつ的確な指示に、現場に居た我々も随分助けられたことを思い知らされる。…翻って、当時の首相は震災翌日に福島第一原発へ乗り込み、原子力委員長を恫喝しながら電源車の手配まで口を挟んだ。会議を幾つも立ち上げ、怪しげな学者が参与に名を連ね、にもかかわらず会議議事録は作成されなかった。挙句、偽装的退陣宣言によって延命を図り、国会が2ヶ月以上空転したことは御承知の通り。その間、被災地は本来不要であった「自助努力」を強いられ、補正予算成立を半分諦めた首長が「首相は被災者より原発の方が大事なのだろう」と吐き捨てたことをよく覚えている。 村井は本著に於いて「復興の遅れは、国の組織や制度上の問題」として当時の内閣を気遣っている。その上で東北復興のあるべき姿を提示し、必要な法整備や地方組織の変革、農林水産業の回復、企業誘致、観光資源の開拓、学術拠点の整備等々忌憚なく綴っている。かつて新聞社系週刊誌は村井に新自由主義のレッテルを貼り「宮城の小泉」と評したが、本著を一読すれば的外れな侮蔑であったことは明白である。 本著には政策上の判断ミスとして、二次避難奨励の時期尚早、牧草用稲藁のセシウム汚染を挙げている。沿岸部自治体の行政機能回復が見込めない中で二次避難を促すことは間違いではなかろうし、当時の通信事情を考慮すると稲藁の汚染は防ぎようがなかったように感じる。早い段階でミスを認めて修正に臨んだことが、その後の復旧に十分生かされたと評価すべきだろう。
本著が出版されて間もなく復興交付金の一次配分が決定したが、宮城県分は申請の5割強しか認められず、村井知事は珍しく感情を露わにした。現地では復興庁との折衝や担当政務官の無能が語られているようだが、これ以上被災地を苦しめるような愚策・不作為は御免蒙りたい。復旧は待ったなしの状況であり、ゆくゆくは地方への財源・権限の移譲も、国民ひとりひとりの問題として捉えるべきだろう。 亡くなった方々や御遺族には改めてお悔やみ申し上げるが、一方で、災害規模を考慮すれば僅少な犠牲に留まったと実感する。(大川小学校のように救われるべき事例もあったが) この点、地元消防団・自衛隊・警察・海上保安庁各位の御尽力、更には学校・病院・施設の皆々様の御献身は述べるまでも無く、避難所で過ごされた被災者方々の忍耐とモラルには、本当に心を打たれた。愚生は被災地の人々と同じ国に生まれ、同じ言葉を話し、同じ困難に立ち向かっていることを、心から誇りに思えた。何故か我々は首相を選び間違えてばかりいるが、賢明で忍耐強い異郷出身知事を選ばれた宮城県民の皆々様に敬意を表したい。
宮城の村井県知事のことは当時の松本復興担当相との会談の一件ではじめて意識しました。あのとき多くを語らなかった村井県知事が被災地のこれまでとこれからを語っています。 知事は地震発生からわずか16分後の自衛隊への出動要請や住民への明確なメッセージの発信など指揮官としての強いリーダーシップを発揮し、今は東北の復興に心血を注いでおられます。 断片的な情報だけではわかりにくい被災地の現状と今まさにすすめられている復興と今後のビジョンが、東北を牽引する力強いリーダーの一人である知事の言葉でしっかり伝わりました。
もうすぐ震災から一年。これまで以上に東北を応援していこうと強く思いました。
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