あの小説がどんな映画になったのか、期待をもって観ました。 観終わって、あれっこんなんだっけ?と当てが外れた感じがしたものの一方で、納得感もありました。 この物語の毒を小泉今日子さんに集約させたのではないか、という感じもするのです。 原作はオムニバス調で秘密のないはずの家族の裏側をグロテスクに描いています。 家族を均等に描くのではなく、主人公視点に絞ったのかな、と思ったりしています。
子供の頃閉じ籠り、高校生で集団無視にあい、そこから抜け出すために手ごろな男を見つけて子供をつくった。 すべて自分の計画で進んでいる。そして完璧な家庭を作って何不自由のない幸福の内にある。という自分を演出し続けている主人公。 家族には何一つ隠し事がないと言いつつ、嘘・デタラメの半生を教えていた。家族も、嘘をたくさんついていた。 嘘を全部ばらしたとき、家族はどうなってしまうのか。
もう、だめだ、と絶望したとき、家族は・・・・。
一つの完成された文芸作品を脚色しなおすのは、難しそうだと思われました。 この作品は、小泉今日子さんに尽きます。
相も変わらず黒沢作品は「好きな人は好き。ダメな人は駄目」と意見が分かれるが、それでも月並みだが、変わらず黒沢らしいのかもしれない。
下記にレヴューされている方の中には、黒沢作品に特徴的なある種の唐突さに面喰っている方もやはり多いようだが、黒沢作品全作に共通してあるのは、まさにこの「いかにも」という唐突さにであり、作中の人物たちがそれぞれ意味ありげに浮いていて、各々が何かを象徴し代弁しているような、この何か実験的な舞台演劇の様な唐突さこそに、物語重視で時に見やすい作品に心動かされるような人たちが「意味不明だ」と面喰うのである。その唐突さは、時に滑稽で、みじめで、やっぱりおかしい人物たちの描写にも最大限に表れている。いくらみじめたらしくても、リストラ仲間の「同窓生」とのやり取りなどははっきり言って笑ってしまう(笑)。
ならば、この物語の「家族」という共同体において、それぞれが何を象徴し、代弁しているのか。それは見た人の判断に委ねられるが、大雑把にだが見えてくるのは、この国の家族共同体の機能不全から生じる諸々のこと。著書によれば黒沢はあらゆるジャンルはある意味何でもホラーに見えるというが、家族(問題)という、目の前にあってこれほど恐ろしいものは今無いのかもしれない。今一番の化け物屋敷か。
その化け物屋敷の模様、父性の権威失墜の問題に始まり、下降スパイラルをたどりながら後半にかけて見られる数々の破たん劇。
「父親」:リストラ食らう。だが、頑丈なプライドだけはある。駄目オヤジ→「長男」:ひきこもり。駄目なオヤジ、嫌な家族、日本。だから強いアメリカ。「母親」:機能不全に陥った「家族」の唯一の調停者。だが、なす術なしの傍観者。もう全てを無にしたい(自殺?不倫?)。
そして、この救いのない物語で、それでも微かな希望の光を託されているのが末っ子である「弟」。 ピアノ教師への恋愛感情がきっかけで、取って付けたようにわかにピアノを始める小学生の「弟」は、物語全体を覆う暗く滑稽で荒んだトーンからはやや浮いていおり、最後に、その存在は、物語中の最大の希望の表現として、「ひょんな唐突性」をもって描かれる。
今回も黒沢が残すメッセージは「アカルイミライ」同様に、「いついかなる時でも、希望とは若者のことである」。ということか。
あいかわらず黒澤清のシュールさは秀逸。オーバーリアルな設定も、身近に感じさせる演出。舞台挨拶の生キョンキョン、井川遥もイケテルし所々に織り込まれたユーモアもさすがの一言。こりゃヒット間違いなしだな。
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