島崎藤村の「破戒」は、明治39年に自費出版されました。 全国水平社の結成が大正11年ですから、部落問題を真正面から 見据えた「破戒」の先駆性は明らかです。 昭和14年に「破戒」の改定本が出版されました。島崎藤村と 全国水平社との協議による改定でした。 「破戒」の差別的表現を訂正したとのことです。 確かに初版「破戒」には、種々の差別的表現がありました。 「穢多、非人、かたわ、気狂い」等の。 しかし、それを訂正すると、かえって、部落差別を糾弾する 作品のインパクトが明らかに低下してしまい、改悪でした。 そして、昭和28年、初版本が復原されます。 しかし、部落解放同盟は、 1.何の解説もない、単なる初版本の復元はおかしい 2.部落民と解放運動を考慮してほしい というものでした。 「破戒」には、確かに「差別的要素」は、あると思います。 ・差別用語 ・丑松が、穢多だということを隠していたことを、土下座して 謝る。アメリカへと旅立つ=逃避 ・解放運動家の猪子連太郎の台詞:「いくら我々が無智な卑賤 しいものだからと言って」の問題点 しかし、まあそれは、何というか、無いものねだりという気がしてなりません。 まだ、部落解放同盟はおろか、全国水平社すら無かった時代のことですからね。 時代的制約というものが、時代的限界性というものが確かにあるでしょうね。 むしろ、その先駆性をこそ賞賛すべきだと思われてなりません。
どんな教材もそうですが、 子供に与えっぱなしではやらないです。
ただ、仕組みとしてはすごく良い教材だと 思います。 やっぱり、音読は良いらしいので。
一緒に毎日取り組んであげれば 天才になるかも。
子供の興味はひとかけらも惹けませんでしたが 私が気に入ったので星5つです。
戒めというと宗教的な感じがします。父親からの忠告、約束としてそれほど気にかけていなかった出自についての真実が、時間を経てドンドンと重たくのしかかってくる、その中で父の思いを知り、最後の告白に至るまでの過程は重苦しい気持ちになります。都内で生活していると聞きませんが田舎では部落、同和地区など10年ぐらい前には普通に聞きました。現代日本でも在日や外国人などに形を変えて同じ問題が存在しているのかもしれません。
島崎藤村の詩は若い頃から好きであったが、散文は「千曲川のスケッチ」を読んだ程度で、小説はなぜか敬遠してきた。多分、藤村の私生活に共感をもてなかったためだと思う。ところが、ある雑誌に載った対談に触発されて岩波文庫版の「夜明け前」(全4巻)を取り寄せたが“つんどく”状態となっていた。今般、Amazonの電子書籍リーダー(Paperwhite)を購入したところ、kindle無料本に「夜明け前」があることを知り、これで読んでみることにした。断続的に読んだが、文庫本の活字を追うより年寄りには読みやすいようだ。今回のレビューは、読了したこの巻についてのみのレビューとして、以降のレビューは全巻読了後、第二部(下)に記すようにしたい。
「木曾路はすべて山の中にある。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、云々」の冒頭の文章はあまりにも有名である。馬籠は木曾街道(=東山道:中仙道)六十九次のうちの木曾十一宿の一つであり、主人公の青山半蔵は馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねる旧家の当主となるが、時勢の影響もあり平田派の国学を信奉している。本巻に描かれる時代は、幕末の激動が始まる黒船来航(嘉永6年、1853年)から生麦事件(文久2年、1862年)頃までである。黒船来航の情報や防備のための大名の軍勢も馬籠を通る。安政の大地震の情報も和宮降嫁の行列も馬籠を通る。山深い馬籠を舞台にして幕末維新の激動期が語られる巧みで重厚な語り口となっている。このような藤村の文学の味を初めて知った。
この巻を読んで印象に残った点を記すと、 1.江戸時代は極めて綿密な統治が行われていたこと。 例えば、木曾街道六十九次を設置して、宿の体制は助郷を加えて極めて合理的に運営されていた。また、森林管理も厳重で「再生可能社会」を実現していた。ここでジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』にある「徳川幕府の解決策」にある記述を思い出した。 しかし、黒船の外圧を受けて日本の統治体制は変わっていかざるを得なかった。 2.江戸時代は災害に意外と強かったこと。 この間に江戸に壊滅的な災害を与えた安政大地震や馬籠宿の火災も立ち直りが早い。勿論、インフラが高度化した現代とは違うが。
この作品は、不思議なことにスリルが有る。 俳優さんや監督さんの技術が優れているという事もあるが、 内容が差別問題であるという事がその要因だと思う。
被差別者であったが為に傷心し、悩む主人公の小学校教師。 同じ人間でありながら同じ日本人でありながら、区別され、 それを隠さなければ今の立場から転落するとう恐怖。
これは単純に恐怖と言って過言とはならないだろう。 教師になるという夢を手に入れ、一生懸命に生きていたのだから。
主人公が最後の方で、行動を起こして見せる。 勇敢にも人柱となって、行動を起こしたという事である。 それは、いままでの行動が実を結ぶ瞬間なのだが、本人にとってはそうでは無い。 教師として主人公の身の回りの絆が全て無になる瞬間でもあるからだ。
人柱となり火の付いた屋根を支えた柱は、 たとえ家が焼けたとしても、その魂は永遠に不滅であると思う。 人にやらせるのではなく、自分でやらなければ、論ずる資格なしだろう。
「この主人公が最後に立つ所、いきつく所は、いったい何処になるのだろうか?」
終始、それを考えて観ていた。
皆様に是非みてもらいたい映画である。
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