いわゆる世に名高い
美術作品の『名作』が、この世に生まれいづるまでには、通常の生活体験を超えた、異常と言ってもよいほどの極限の人間感情やドラマを経ることが不可避であるのであろうか―。そう思わせるに十分な説得力をもつ、本作中のエピソードの数々は、
美術の名作が、かならずしも人々の幸福を約束する形で生まれてきたものではないことを残酷にも訴える。こういうと逆説的に響くかもしれないが、とりたてていわゆる『名作』でない、一顧だに値しない凡庸な作品をもふくめ、ほとんどの作品が上記の事情であることを、もっとも純粋な形で提示してくれるものが、あるいは『名作』であるのかもしれない。
本書に於いて、モディリアーニ、
ピカソ、マリー・ローランサン、カミーユ・クローデル…等々、時々耳にする歴史上の
美術家たちが、いかに苦悩し、呻吟し、時には歓喜に満たされ、理想を求めつつ、しばしば自己だけでなく他者をも滅ぼし、その生命の代償として、きわめてわずかな氷山の一角のごとき名品を残しえたかという事情が偲ばれる。西岡氏の筆致はシンプルでわかりやすく、この手の執筆者にありがちな、いたずらに事実を歪曲しドラマ仕立てに
仕上げようとする傾きを極力排し、できるだけ事実を忠実にたどろうと試みているらしい姿勢が好もしい。とはいえ、まったくの事実そのものの、もう一歩先の心情を忖度したいという望みがなければ、本作のようなロマネスクを編むことは不可能にちがいない。いずれにせよ、本書は、アフロディテに仕える下僕、美を求める情念者・審美者の一派たる
美術芸術家たちの創造の背後に、いかに生々しい人間のドラマが潜んでいるかを活写し、同時に端正な
美術史・
美術エッセイの顔もあわせもつ、きわめて懇切な
美術入門書をなしている点が、出色であると思う。