小田和正さんの主題歌は、昔の懐かしい青春の風景が心に浮かんでくるようなあたたかく優しい曲。その名残を楽しむかのように、岩代太郎さんによる楽曲が入っています。このCDを聴いているだけで、とても心がおだやかに、幸せになれる一枚です。
これまでの作品とは違い、戦争や農業などをやりに行くまでの間にも武将を直接操らなければなりません。攻める時に篭城戦に持ち込めば自分の兵糧が尽きないかぎり勝ててしまうのが難点。
私は戦争を知らない1963年生まれだ。夏真っ盛りとなり、そろそろ夏の甲子園の季節をむかえる時、高校野球開催期間中に終戦の日をむかえる。
終戦の日を終戦記念日ということに私は抵抗がある。それは今も尚、世界で起こっている紛争を見ていると戦争は終結したと思う事ができないからだ。
そして何を”記念”するというのか・・・私はこれを戦争を過去のものと位置づける危険な表現だと感じている。
日本で最も愛すべき人物の一人、この本の著者、小田実はこの「難死の思想」の中で戦争における加害者の立場と被害者の立場について語ってる。
そしてそれは同じ人間が状況によってどちらの立場にも成りえる危険があることを強く警告している。
日本は敗戦が濃厚になってから二度にわたる原爆投下をうけた。沖縄では激しい戦闘があった。東京も
大阪も焼け野原になった。多くの国民は難死をした・・・・。
このような戦争被害者としての体験は多く語られていて、日本での戦争体験はこのような被害者としての立場に立ったものがほとんど全てであるのだが、
よって戦争はもう嫌だ、あってはならないとなるのだけれど、では例えば今、シリアで起こっているようなこと、そして古くは
ベトナム戦争下においてのアメリカに対して”歴史を繰り返すな”とか”戦争をやめろ”とか”殺すな”と信念をもって日本は発言しただろうか。
あれだけ戦争によって辛い思いをした日本だったはずなのに、
ベトナム戦争にいたっては逆にアメリカを支持していたではないか。
そしてこの戦争によって日本は大きな恩恵を受け経済発展を成し得たのだ。
イラクの湾岸戦争において当時の総理、小泉純一郎はアメリカを支持する発言を繰り返した。もし日本が戦争被害者としての体験を世界に問うのならば、日本の政治家は世界で起こっている戦闘、暴力、殺害に対して特にアメリカに対して激しく抗議をするべきなのだ。
イラクが大量破壊兵器を持っているとしてアメリカは戦争を起こしたけれど、何も見つかりはしなかった。この点に関しての追求は何故おこなわれないのだろう。
この時も多くの市民が命を落としたのだ。この本で小田実が言う難死ではないか。アメリカ兵だって生まれながらの兵士ではないだろう。ついこの前まで平凡な生活をしていたアメリカの一市民であったはずなのだ。このように被害者も加害者も一般市民がどんどんと戦争に巻き込まれてゆく恐ろしさ。
小田実はこの点に関してこの本で警告を行なっているのだ。そしてベ平連(
ベトナムに平和を市民連合)によって激しい抗議を繰り返した。このような抗議こそ日本の自立の為に今必要なことだと感じる。
政治家同士が意見を交換する外交ではなく民間レベルの外交こそが求められているのだ。
ではもう一点、日本は被害者としては多くを発言しているが、日本の加害者としての発言がまったく聞かれないのはどうしてだろうか。
私は歴史を詳しく学んでいるわけではないが、例えばナチス
ドイツの加害者としての反省の上に立って国家再建に取り組んだ
ドイツとは日本は異なる態度を示してきた。
第二次世界大戦、またそれ以前の戦争において日本がアジア諸国を侵略し殺害し略奪したこの事実に蓋をして、いくら平和を語っても世界では受け入れられないだろう。
日本は第二次世界大戦で負けたから被害者意識が強いけれど、もし勝つか破壊的な打撃を受けずに踏みとどまっていたならば、まだ、日本はアジア諸国に対して非人道的な行為を繰り返していたに違いない。それは戦争に負けた故に惨めな被害者となった市民その人が、逆に加害者として平気で他国の人を殺し苦しめる存在になっていた可能性があるからだ。
いや、可能性としてではなくそうなっているはずだ。あの原爆投下を正当な行為であると言う人がアメリカの一般市民に多いのはアメリカが勝利したからだと言えないだろうか。
小田実はこの「難死の思想」の中で自分が加害者になっていただろう事の恐怖を語っている。国から人を殺すことを求められ、戦争が正当化され、命令を降されたのならば、今一般の会社などで見られる職務命令として多くの日本人は実行していたことだろう。
そして後には「あれは、戦争だったので止むを得なかった行為だ」というのだろう。日本がアメリカの影に隠れるようにして戦争被害国に対して支援なり紛争解決への積極的な動きをしないのは、そこに踏み込むと日本の戦争責任を問う声が多くなる・・・だから目立った発言ができないのだと私は感じている。
テレビにおいて専門家と言われてる人達が「日本は貢献をしている。お金も+++出しているし、自衛隊も100名送り込んで道路を再建している。」というが、そんなことは言い逃れの為のささやかな行為でしかない。
韓国でも中国でも、日本への反発心は今尚、強いではないか。日本人が被害者としての劣等感から抜け出し、加害者としての責任をしっかりと認め、世界に対して発言をすることによって世界から初めて信頼させる独立した存在として認められることになるのだと思う。
今尚、沖縄の基地問題は解決しておらず、オスプレイは日本に投入された。現在の総理でまもなく退陣する総理、野田佳彦は「オスプレイの安全性が確認できなければ、日本国内でのオスプレイの飛行は認めない。」と発言した。しかし、そうであるならばまずオスプレイを日本に持ち込まさせない対応が必要だったのではないか。アメリカは日本のトップの発言をあざ笑うかのように、無視するように、12台のオスプレイが日本に投入された。そして、燃料も補充されプロペラは回り、後は離陸するだけになっている。アメリカが日本に基地を維持しているのは日本を守る為ではなく、アメリカ自身とその利益を守るために必要なのだ。だから日本国内で少し煙が立つと表現を柔らかくして火消しをするけれど、アメリカの国益の為に今後も日本を利用し続けるだろう。日本の高度経済成長はアメリカが日本を自由にできるように日本に与えたごちそうのようなものだろう。その証拠にアメリカ自身が厳しくなればごちそうは質素になって減るし、今日のように日本国内がガタガタになれば政治家は誰も落ち着きを失い、何をしてよいかわからず迷走し無様な姿をさらすだけだ。アメリカに対して「そろそろ日本から出て行け」と発言できる指導者が出てきたときにこの日本という国は救われるのかもしれない。小田実がこの本でも書いているように、我々は今また巻き込まれつつある存在になってきているのではないかと感じる。
先日、NHKで水俣病を取り上げた番組があり、作家の石牟田道子さんが水俣病患者の女性が水俣病で苦しむ人への支援を求めに東京に出向き国に対して直談判をした時の話をしていた。その女性の発言「東京まで出かけていったけれど、日本という国はどこにも無かった。」は今の日本という国の現状を考えたとき、大変重い意味を持つものとして受け止めなければならないだろう。
この本は私にとっては難しい内容だったけれど、もう少し時間をかけて読み直してみたい。
とても重要な問題提示をしている本だと私は思います。