戦後25年。かつて反ファシズム・プロパガンダ映画を撮った作家も老境に差し掛かり昔日のおもいで時の社会を眺めていたのだろうか?戦争は終わった。「栄光の日々」は去った。経済成長は過去を夢想することを風景から奪ってしまった。時代錯誤への思わせぶりな仕草である。死への誘惑、美への憧憬、退廃への耽溺。絵に描いたような没落。これを崩壊の美学としたい願望のフィルムと名指すのは実に容易い。しかしいささか胡散臭くみえてしまう陰謀と倒錯そして殺戮と復讐のドラマではある。ナチズムを狂気としてひとまず括ってしまえば、この過去への眼差しの意味には口出しされまい。失われたときを求めて。そんな疑りもかすめる。いっぽうで激化する社会。急進化する左翼。この現実は戦後社会の変容の果てにとりあえず辿り着いた仮の世界、それも偽りの世界にすぎない、としておこう。そんな呟きも聞こえる。「地獄に堕ちた勇者ども」・・・過去の栄光。華麗なる舞台。オペラの輝き。そんな時代がかった大芝居も時代錯誤の大家として振舞うことで許容されたのだろう。そんな役回りへの周囲の期待に応えてみせたのか。それから早や30年以上。信じがたい時間の経過である。懐かしさなしにはこんなフィルムを今見ることは難しい。
相続をめぐる家長的室内ドラマを背景に、ドイツ鋼業界は本音を言えばナチスとの軍産複合体制の夜明けを待望している。 一方、財界やプロイセン伝統のドイツ国防軍にとってヒトラー子飼いの私兵「突撃隊」は目ざわりである。 新生ドイツのために培ってきた協力関係も、ヒトラー政権が近づくほど煙たくなって罅割れが生じ、ついには粛清に至る。 こうした政治的妥協を巧みに用いたヒトラーの偽装的な中道路線の空恐ろしさを見事に描写した作品である。
この物語の底流には Ha'liebe すなわち憎悪愛がそこかしこに散りばめられていて、登場人物各々が未だ得たいの知れな いナチスの魅力に撮り憑かれながら、性格的弱点にカンフル注射を打たれ権力に迎合していく小市民の傲岸さをヴィスコン ティは喝破している。
絶対にビデオで見るべきでない映画というものがありますが、ビスコンティの作品はその最たるものといえるでしょう。特にこの作品のように、舞台劇的な要素の強い(アクションや編集の妙で見せるのでなく、あくまでも演技で勝負する)作品は、その空気に上手く乗り切れないと、観ている方は非常にダレてしまいます。以前ビデオ版を試したことがありましたが,映像が汚くて観ちゃいられませんでした。その点、劇場で観るほどの臨場感は望めないにせよ、DVDでの復活はうれしい限りです。 それにしても毒のある作品ですねえ。もうあまりに毒が強過ぎて、分からない人にはまるで分からないと言う可能性さえあるでしょう。一つの文化の崩壊を描いた作品として、近年"アメリカン・ビュティー”がありましたが、この作品に比べると軽い軽い。何やらただならぬ妖気に満ちあふれた映画です、しかしながら、私は"退廃美”とか、"狂気と倒錯”といった言葉のみに惹かれてこの作品を見た人はむしろその本質を見失うのではないかと危惧してしまいます。 この作品はヨーロッパ文明の崩壊を象徴的に描いた作品ですが、その近代ヨーロッパ文明の礎を築いたルネサンスを強力に推進したプロモーターは、ほかならぬビスコンティ家だったのです。それから約500年後、この家系の末裔、ルキノがその終焉をみとることになろうとはー。彼にとってこの作品を作るということは、"退廃の美"などと言う生易しいものではなく、"痛恨の極み"そのものだったのはないでしょうか。その運命も凄まじいが、それを敢然と受けて立ち、芸術へと昇華してしまう彼のエネルギーもまた凄まじい。まさに刮目して観るべき作品だと思います。
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