無理に想像したり構えたりせず、楽な気持ちで画面と向き合って下さい。
何故なら、巧妙な脚本に依って自然な思考の流れと爽快な結末が用意されているからです。
物話の構成は特徴的ですが、わざとらしさも、押し付けがましさもなく、何より解り易いのは見事という他ありません。
もちろん、脚本の力だけではなく役者達の好演に因るところなのですが。
登場人物の描き方は鮮やかで、主要人物だけでなく脇役のひとりひとりに至るまで性格付けされているので、観ていて無駄な場面が無いという印象です。 宮田君の同僚、ウェイター、タクシーの運転手、山ちゃん...可笑しいです。
また、作品の絶妙なアクセントになっている音楽の使い方も楽しめます。
何だか褒めすぎのようですが、このような作品を生み出す監督、脚本家がいるというだけで嬉しくなるのです。
明日。 明日、長崎に原爆が落ちる。 その前日、 そこに生きる人々、 戦時下であり、 それが日常であり、 明日へ向う生きる力である。 結婚式、 生まれる子ども、 それもまら、日常の中の、人間たち。 明日、 明日に未来があると、 信じている。 いや、 信じるというよりも、 疑っていない。 だから、絶望なんてしていない。 物もなく、 豊かさのかけらもない生活で、 彼らは地に足をつけて生きていた。
この重さ。 この暗く、重い、物語。 忘れてはいけない、 忘れてはいけない。
各章が、数字で進んでいるのだが、 最後の章が、“0”になっている。 その数字を見たとき、 もうどうしようもなく、 胸が締め付けられるような気がした。
今を生きる僕が、 明日を疑うことなく、 生きられる力を、 持つことができるのだろうか。
今、生きている。やらないと行けない仕事と称するものがある。今という瞬間、私たちは明日があることを確信している。
今、必死に、生き物としていきている。人間社会の規範にしたがっていきている。明日のために。
「明日がある」という前提でいきている。行動している。考えている。
この作品は、戦時、必死に「明日」のために生きている人たちの日常生活を克明に描く。
そして、ピカドン。
「明日はない」
庶民の 悲しい 事実を 伝える。
今はなにか。明日を前提にしている。それを無惨に消してしまったアメリカ国の原爆投下。
監督の意図は明確。
私は 納得する。
今。「明日」があると信じている自分たちがいる。
原爆は この 前提を すべて 消した。
涙が 出てくる。悲しみ。怒り。これが 長崎の 「明日」である。
幼少の頃から「嘘つきミッちゃん」と呼ばれた井上光晴氏は、ご自分の経歴を偽り、家族も知らなかったそうです。長女の荒野さん(本名)の名前も、人と変わった劇的な一生を送るようにとの願いから「嵐が丘moor・あれの」と名づけられました。荒野さんによると、経歴詐称や数々の嘘も、何事もドラマチックな展開や結末を図る天性の作家であるサガによるものとかばっていらっしゃいます。お母様も毎日3度、居酒屋のような食事を誂え、食事中にあれが食べたいと他の物を所望すると、それに答えるという献身ぶり。瀬戸内寂聴氏ご本人が、出家の原因は井上氏であると語っているように、女性関係も多々あったご様子ですが、家族が献身せずにいられない井上氏の魅力的な側面が伺えます。
原監督は井上光晴の「フィクションとノンフィクション」についての講演を聴いて、彼を映画の対象として決めたそうです。「虚構と事実」の関係はドキュメンタリー映画監督としても関心のあるテーマだったのでしょう。それがこのような展開になるとは不思議な符合です。
構成上では映画の半ばで、初恋の人が娼婦になったというエピソードが虚構だったことが知らされ、旅順で生まれたことなども事実ではないことが明らかになります。原監督のことですから、直接本人に矛盾を突きつけるのではないかと予感したのですが、それは収められていません。その理由は、亡くなってから氏の半生が虚構だということが分かってきたからだそうです。
井上光晴が「自筆年譜」を創作したのが、松本健一が作家の自伝 (77) (シリーズ・人間図書館)で引用する谷川雁の言葉のように、「本当の履歴を書くということに彼は耐えられなかった」からであり、「自分の存在の一頁をね、あるがままに提出したくないという気持」があったからなのか。
だとすると、この映画はその「わざと白いままに残された」最後の一頁に辿り着いたのだろうか、母との関係なのか、祖母の秘密がそれなのかという疑問が浮いたままの状態です。
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