この本は古本について。古本で一番高いのを買ったのは1968年に大学1年のとき早稲田の古本屋でケラワックの「路上」初版。河出書房。5000円。南池袋の下宿の家賃、7000円の時代。ラーメン80円か100円。親友のジャズ研(ピアノ)の中富に見せびらかした。「凄いなー」と。学生運動に走り谷書房(オヤジは長谷川さん。まだ営業してる)に売り飛ばした。オーデン詩集。ギンズバーグ詩集も。何ぼか忘れた。それでレーニン10巻選集を買った。トロツキー選集も10冊位まとめて買った。オヤジさん、ケラワックはとってたら?と言われたが「いいよ、どうせあと読まないから」後年、コロンビア大学でケラワックが寄贈(実は売却)した書簡を図書館で閲覧した。雑誌の書評や映画評、CD批評はよほど大作家、大評論家でない限り原稿料は安い。聞いた話だがそんなに安いの?というくらい。だから数でこなす。小生このレビュー900枚くらい書いたがただ働き。あまつさえ「狂人」「品性を疑う」 「頭がおかしい」おかしいのはお前だよ。やる気なくなった。お終い。
電子書籍が話題となる中、書籍はどうなっていくのか?
37名の論者が綴ったエッセイ。
ということなのだが、「電子書籍」というものの捉え方などに差異が大きく、全体としてまとまりに欠ける印象がどうしても残る。
その中で、明らかに「?」というものは、池内了氏の「紙は有機物。人間も有機物。だから相性がよい。無機物のシリコンの電子書籍は相性が悪い」など。明らかに、論理性がなく、ただ難癖を付けているとしか思えない。
そういうものは別としても、「電子書籍」をどの段階で捉えるのかが大きいと思う。
例えば、内田樹氏などは、「本を読むとき、その厚みによって、残りの分量などを量り、その言葉の意味を読者は考える」と主張する。このこと自体は、その通りだと思う。そして、「電子書籍には厚みがないのでそれが出来ない」というのだが、果たしてそうなのだろうか? 確かに、「現在の電子書籍」ではそれが出来ない。しかし、将来的にどうだろう?
求められるのか? という点はあるにせよ、技術的な問題というのは、その発達によって解決するのではないだろうか。
また、多くの論者が「紙の本は残る」というのだが、「残る」というのがどういう位置づけなのかも曖昧なままである。細々とでも発行され続けている、というのも「残る」には違いないはずだからだ。
そういう部分を考えると、どうもテーマが曖昧すぎて、ぼんやりとしている、というような印象を抱かざるを得ない。
ただ、池内氏の難癖のようなものも含めて、紙の本というものが、ずっと大きな影響力を持っていた、という証左とも言えるのかも知れないが。
本書は、様々な人を礼に日本人の美点とは何かを解説しています。
東日本大震災が発生して、非常時における日本人の対応が外国メディアに賞賛されています。本書を読んで、改めて日本人の持つ礼節とは何かがわかると思います。
時々本棚からこの本を取り出しては、
スクリーンの中の高峰氏を眺める。
頭がぼーっとしたまま時間が流れてゆく。
不思議なお顔である。
一分の隙もないようでいて、たおやか
実直さが艶やかさを呼んでくる
よい香りが微かにたちこめる…
「馥郁たる」という言葉の意味を知る。
「浮雲」の頁に収められている、ある写真に目がとまった。
撮影の合間であろうか、森雅之と接近して言葉を交わしている小さな写真だ。
この一枚だけが別人に見えた。
ほんの少し違った人生だったならば、
こんなお顔で日常を過ごされていた、のだろうかと、考えてやまない。
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