この事件当時、私は仕事に遊びに多忙な22歳の若者でした。
当時色々な報道もありましたが、正直、「こんな凶悪犯罪があるんだ」程度にしか感じておらず、新聞もニュースも全く見ておりませんでした。
今となってはお恥ずかしい限りです。
現在、一人息子が小学生になり、少年犯罪のサイトなどに関心を持ち始め、
そのとき辿り着いたのが、この「淳」という一冊の本でした。
最初から最後まで一気に読みました。途中、読みながら体が震える思いでした・・・
「犯人が成人以上であってほしい」と願ったお父様のお気持ちが、今の私なら理解できます。
結果として、犯人は若干14歳の少年であったが故、犯罪史上稀に見る事件だと衝撃を世間に与えながらも、処罰、ならぬ、「更正」で、彼は既に世間に出ております。
ご遺族の方にとっては、少年法というのは、なんと残酷な法律なのでしょう・・・
被害に遭われた宝物である息子さんは二度と帰らないのに、加害者は数年でこうしてまた世間に戻って来られるのです。
改めて凄い憤りを感じました。
この本で触れている、「マスコミの過大報道」というのも、本当に被害者にとっては大変な苦痛です。
こんな酷い形で最愛の子供を失ったのに、追い討ちをかけるような誤報道、そして取材攻撃・・・これは本当に、今後マスコミの方にも真摯に受け止めていただきたいと思いました。
「少年A」は、更正施設にて過ごしただけに過ぎません。施設にいたことは償いではない、これからが本当の償いです。もちろん親もです。
被害者は帰ってこないという現実を一生をかけて償って欲しい。
そして、少年法、マスコミの報道姿勢・・・まだまだこのような犯罪に残された課題は、果てしなく無数にあると感じました。
加害者の両親の身勝手な手記と同時に読む。
事件からもうだいぶ経つ、と思っているのはやはり関係ないからであって、被害者家族にとって、このような痛ましい事件はいつまでもいつまでも消える事も癒される事もないんだなと実感。
自分も親と言う立場になったので、余計にも子供をなくすとはどれだけつらいかを想像するだに、何とも言えない気持ちになった。
本当に、加害者は更正したのか?更生施設で表面上だけかもしれない危うい更正を受けて社会復帰出来るなんていいのだろうか?そして、被害者は何故これほどまでに、事件以外の事で多く苦しみ傷つき、負担がかかるのか。
「償い」と言う意味と行動について、改めて考えさせられた。
神戸連続児童殺傷事件が起きた当時、私は小学生だった。 そのためこの事件の詳細と、事件が当時の世間に与えた衝撃の大きさを知ったのは、私自身が事件当時の少年Aと同じ年頃になったあたりだった。 私が事件の詳細を知って思ったことは、犯人は全く異常な人間だということだった。 得体の知れない、常人とはかけ離れた冷酷な人間だと思った。 しかしこの手記を読み始めてすぐに、そういう犯人像とは違った少年Aの姿があらわれてくる。
それは、逮捕以来三ヶ月ぶりに会った両親に対して、少年Aが「帰れ!」と泣き叫びながら拒絶する姿だ。 Aのこの激しい拒絶に対して、Aの母親はひどく狼狽し〈A、どないしたん?何をそんなに怒っているの?〉と心の中で呟く。 Aが逮捕されて以来、Aの両親はずっと自分の息子が犯した犯罪を認めることができずにいた。 両親はAの口から「僕は犯人じゃない、僕の罪を晴らしてくれ」という言葉が出てくるのを待ち望んだ。 しかし、Aは両親からの面会の要請を頑なに拒否し続けた。
〈何であの子は何も言って来ないの。あの子の『僕じゃない』という一言があれば、私は動くのに。こんな風に隠れていないで、押し寄せてくる新聞やTVや雑誌のカメラマンたちに写真を撮られても、表へ出て、たとえ近所の人々に親バカと罵られても、事件のことを調べ回り、”無実”を証明するために駆けまわるのに……。なぜだろう、なぜ……〉
私は母親のこの記述を読んで、この母親は自分の息子のことを認めていないのではないかと感じた。 Aは一言も「自分は免罪だ」と話しておらず、ましてや親のその期待を拒絶するかのように面会すら拒んでいる。 正直なところ、Aにとって殺人とは最大のメッセージ(自己表現)だったのではないかと思う。 Aは殺傷・殺人に至るまでにも、いろいろなメッセージを出している。
両親にわかっていたものでは、 ・粘土で人間の脳を作りそれに剃刀の刃をいくつも刺した物を作る ・土師淳くんを殴る騒ぎを起こす ・万引き ・カッターナイフで自転車のタイヤを切り刻みパンクさせる ・部活の練習時にラケットで仲間を叩く ・同級生の女子の靴を燃やす ・同級生を「ばい菌」と呼んで苛める ・ナイフを隠し持つ ・同じ中学の女生徒を家まで尾け玄関のドアを無理やり開けようとする ・飲酒 ・喫煙 ・同級生を歯が折れるほど殴る などがある。 こうやって書き出してみると、両親にわかっていたものだけでもこれだけあり、Aはどう考えても問題を抱えた少年だった。 これらの事件について、両親はその都度Aに対して注意を与えているのだが、何とも奇妙なのが、両親の危機感の低さ、問題意識の希薄さだ。 (特に違和感を覚えるのは、Aから被害を受けた同級生たちへの対応だ。両親はAに注意をし一緒に謝罪には行くものの、親自身が相手に対して申し訳なく思ったという類のことは一切書かれていない。)
そしてAはとうとう殺人を犯す。 これは異常である自分をことごとく認めてもらえなかったAにとって、「自分を認めろ」というメッセージを最大に込めたものだったのではないかと思う。 しかしそのメッセージも両親には届かず、あろうことか両親は息子の免罪を願う。 自分のしたことを否定されるというのは、自分自身の存在を否定されることと同じなのではないか。 自分の存在を、殺人という現実を目の当たりにしてもなお認めようとしない親の姿というのは、A本人にとって絶望的に見えたのではないのだろうか。
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