著者が「プールサイド小景」で
芥川賞を受賞した年に日本経済新聞の朝刊に連載された小説である。裕福で知的環境横溢した家に生まれ、帝大に進み文学を志し、念願の文壇の登竜門たる賞を獲得した直後、いわば何不自由なく育った才能ある青年が最高の状態にあるときに書かれた小説である。
内容は関西から東京郊外に引っ越してきた一家の子供たちの春から秋にかけての記録である。著者の視線はあくまでも透明であり、苦悩、不和、戦争の傷跡などを一切なく、だが科学者のように三人の子供のそれぞれの生命の輝きを観察している。
現在(2012)の二十代ぐらいのひとがこの作品を読んだら「いったいこの話はどこの国のことなのか?」と思うかもしれない。しかし子どもだとか家庭というものの本来の在りようはこうあるべきではないのか、という思いをわたしには拭えない。そしてこのような「家」はかつて日本の一時期にはたしかにあったのだ。だが二度と実現されないことも事実なのである。
庄野潤三氏の次に石原慎太郎氏が「太陽の季節」で
芥川賞を受賞している。「太陽の季節」はベストセラーとなり、「怒れる若者たち」が日本を席捲しはじめたわけである。日本の「旧き良き家庭」はひとたまりもなく打ち壊されてゆくのである。
この文庫本には、「舞踏」「プールサイド小景」「相客」「五人の男」「
イタリア風」「蟹」「静物」の七編の短編が収められています。
中でも最初の二編は、かなり切実で衝撃的に訴えかけてきました。
そのキー・ワードは、「プールサイド小景」に登場する「生活らしい生活」と言う言葉だったような気がします。
のんびりとぼんやり過ごす、いつものありきたりの生活と言うことでしょうか。
そんな何にもない「生活らしい生活」にも、「守宮(やもり)」が棲みついていると「舞踏」の冒頭で語ります。
この「守宮」とは「家庭の危機」です。
作者は、これらの作品の中で「生活らしい生活」を規範にしているようですが、その裏にある無為や荒涼とした生活から、「守宮」がもたらす変化や自由に飛び立とうとする心との葛藤があるように思えます。
そこには「相客」にあるような戦争体験と言うものが裏にあるのかも知れません。
「相客」では、戦争が終わってようやく「生活らしい生活」に戻った兄が、戦犯として引っ張られ、その「生活」から再び引き離されます。
この短編集から感じることは、単調で無為に思える「生活」にこそ、人間として生きることの原点があるのだと語っているようです。