ひと言でいえば、要領よくまとめられた名作の映画化だと思う。偏った解釈を示すこともなく、プレーンな味わいだ。それでいて、きちんと市川崑らしい作家性も盛り込んでいる。しかしそれはライティングへのこだわりやカット割り、アングルなどの映像美において顕著なのであって、ホン(脚本=ストーリー)の部分においてはかなり忠実に原作をなぞっている。
あくまで観客が鑑賞後にいろいろ考えればいいわけで、作品自体が露骨にひとつの結論へ誘導してはいけない。多義的な解釈が可能なのは、そもそも『こころ』という小説そのものが放つ、不思議な魅力でもある。本来は映画としてもっと色気を出したいところだろうが、原作の特殊性を遵守して、映画はわざとストイックに作られたのではないだろうか。
出演者では森雅之、新珠三千代ら、演技巧者の静かな芝居もわるくないけれど、若き日の安井昌二のぼーっとした大根な感じが、とてもよかった(失礼。でも褒めているのです)。濁りのない、澄んだ瞳の青年は、後の市川崑の横溝正史シリーズで金田一耕助が体現する天使性にも通ずるものがある、と思った。
高校生時代に読んだのを、還暦も過ぎてから必要があって読み返した。明治も終りに近い1908年の作品であり、福岡の田舎に生まれ熊本の高等学校を卒業して東京の大学に入った青年、三四郎の恋は、現代からみれば、あまりにも淡泊と感じられなくもないが、その生き方のすがすがしさには、読者の年齢と時代を越えてひかれるものがある。三四郎に似た気の小さい青年の恋には、いまでも、この作品に描かれているような側面があるのではないかとも思われる。その意味で、これは、まさに古典のひとつであろう。ヒロインの美禰子が三四郎と交わす会話は、いかにも簡潔であるが、彼女の因習にとらわれない性格と知性をよく表わしており、いまなおモダンさを失わない。彼女が三四郎に与える「ストレイシープ」というなぞめいた語は、この物語を幻想的に貫いている。また、作者が登場人物の口を借りて展開する社会批評は、現代にも通じる鋭さを持っている。たとえば、広田先生が、これからの日本についていう「亡びるね」という言葉。また、同先生が述べる昔の青年と現代の青年との比較、「近頃の青年は我々の時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない」など。高校生から中高年まで、年齢に応じた楽しみ方のできる好作品といえよう。
百聞は一見に如かず、夏目漱石の生涯が映像で追体験できる資料の1つとして貴重と思われます。実家と養父母先の間を行き来していた幼少期から20歳台前半までの詳細は現在も議論のあるところですが、残された限られた事実・資料・自伝的小説に基づいて描写されています。一瞬ですが、漱石の兄弟姉妹の写真が見られる部分は結構貴重です。
国内の漱石ゆかりの建物や場所は、主として先の大戦の際にかなり焼失しているので映像として紹介するのは困難で、殆どは画像やイメージ映像で構成されていますが、視聴者は、それをヒントに原風景を想起できる場面も多いと思います。一方、留学先の英国では、当時の建物が殆どそのまま保存されて、あるいは、今でも、日常的に使われていて、より身近に感じられ、大変印象的です。
漱石の行動範囲は、当時としては、国内外を問わず、広範囲に及んでいます。逗留または居住した地には漱石に関わる希少なエピソードが数多く伝えられていますが、大部分は伝承で、残念ながら、時間と共に、記憶から遠退いて忘却の彼方に去っています。小説家として、文学者として、文明論者として、人生論者として、影響力の大きい人物なので、出来るだけ正確な漱
石像を描くために、また、今後の漱石の生涯をより詳細に振り返る映像作品製作のために、残されたエピソードは記録として残しておくことが今こそ大切と感じられました。熊本時代の漱石については『
元祖・漱石の犬』も参照してください。