本作は、天真正自顕流、後年薩摩に転生して天真正示現流の名を天下に轟かせた希代の豪剣流派と、それにまつわる人々を描きながら、日出づる国の戦闘者の蛮性を最も長く残していた薩摩という国の気風を、そして薩摩
隼人という生き物の恐るべき凶暴性、剽悍、暴勇を、奔騰する生命の躍動感をもって見事に描ききった、豪筆とも言うべき作品である。
何と言ってもまず「キャラ」が立っている。いや、立ちすぎている。本編の主役というべき示現流は、左肱切断の構えを命として、雲耀の太刀行きの早さにすべてを賭ける「超」豪剣である。小手先の技数、構えの変化などで目をくらまそうとするすべての他流は、「朝に三千、夕に八千」と称される立ち木打ちの修練で培われた刀勢の下に伏すのだ!この日本人好みの「一撃必殺神話」を極限まで推し進めたがごとき示現流が本作においてタイ捨流や新陰流の使い手を微塵と打ち砕く描写を読んだとき、理屈ぬきの生理的快感を禁じ得ない読者はいないであろう。
そこには間違いなく、プロレスや空手の神話にも通ずる、日本人のやむにやまれぬある心性が発露されているのだ(という事にしよう)。
そして本編のもう一つの大いなるモチーフともいえるのが「薩摩」なのである。これもまた、キャラ立ちなどというレベルではない。本編に活写される錚々たる薩摩
隼人の面々、若き次期藩主島津家久をはじめとして下級武士にいたるまで、「盛風力の輩」と称される彼らの蛮性が、何一つ理想化されることもなく弁護されることもなく活写されているのが読者に強烈な印象を残す。作者は一言で「暴勇」と表現しているが、正に暴、正に勇。その中において主人公東郷重位の沈着が、ひときわ鮮やかな存在感を放つ仕組みになっているが、それを差し引いても薩摩
隼人の蛮性は凄まじいとしか言いようがない。と同時に、この対比は、以後の示現流が、後年の薩摩の豪気かつ沈着の気風を養うのにどのような役割を果たしたかを読者に想像させる。
この小説は、昨今回顧的、美化的に取り上げられることの多くなった「サムライ」や「武士道」の恐るべき原風景を、土から掘り出したばかりのダイヤモンドの原石で読者の頭をカチ割るがごとくに(笑)描き出した傑作なのである。何も足さない、何も引かない。賛辞も非難も超越したこの生命力の躍動感の中にこそ、「倭」と称されたこの国のある心性である「武士道」の真面目が見て取れるのではないかと思う。
ちなみに、とみ新蔵先生による漫画化は、効果音や体構え、技法など、武術的要素が見事に視覚化されており、津本先生の原作に新たな魅力を与えている。
さすが平田弘史先生の実弟である・・・。