原作者でもあるジャン=ドミニクは20万回の瞬きでこの作品を書きあげたそうだ。ロックトインシンドロームという難病により左目の瞬き以外できなくなってしまった人生の中で彼はイマジネーションと記憶を辿り、絶望とも思える日々が次第に色を帯び蝶として羽ばたきを始める。
冒頭からドミニクの視点で固定され、一部回想をはさみながらも、主観を変えず、自分の現状を理解していこうとうするシーンが続く。現実を目の当たりにし混乱する中で、様々な人々との交流が自らを憐れむことを止めようとするまで、そしてそれは一つの区切りではなく、緩やかな風のように身体の隅々まで浸透するが如く、丁寧に綴っていく。
ドミニクに感情移入してしまうとストレスになるのは当然で、そう思わせる演出は見事。視覚狭窄や涙で滲むなど感情をカメラで表現しているところが、孤独を巧みに表現できており、もどかしさの中でも人に支えられて生きている実感が湧く。
キャストやスタッフを誰一人知らなくても素直に観賞耐えうる作品。普段ブロックバスターばかり見ている方にもお薦め。
また、原作を読むことで更なる理解を得ることができると思う。夏休みには是非手にとっていただきたい。
初心者ですが歌曲や宗教曲も聴きたかったのでレビューを参考に購入。
私が初心者だからか、曲の並びのせいか、F.in/outナシだとこんなものなのか、何となくコマ切れ感と短さを感じますが全体的に満足。
朝も晩も勉強時も心地よく聴いてます。
ラモン(ハビエル・バルデム)は、彼の尊厳死を支援する団体のジェネ(クララ・セグラ)を通じて女性弁護士フリア(ベレン・ルエダ)と対面し、その援助を仰ぐことに。また一方、貧しい子持ちの未婚女性ロサ(ロラ・ドゥエニャス)がドキュメンタリー番組でのラモンを見て心動かされ、尊厳死を思いとどまらせようと訪ねてくる。ラモンとフリア、ラモンとロサとのあいだに愛、友愛のドラマがはじまる。この映画は、この2人の女性とラモンとの「ラブストーリー」として見ることもできますが、それだけにとどまりません。もう一つ別の愛の形がさりげなく提示されます。それは、ジェネとマルクの愛。彼らはラモンへのインタヴューで彼の家で顔を会わせたのが縁でつきあいはじめ、ジェネは彼の子を生む。月並みな関係ではあるが、結局それが一番人を「しあわせにする」と監督は言いたげ...。 尊厳死と制度の問題も描いていますが、患者の家族の視点もちゃんと描かれています。そして、所々に散りばめられたユーモアと、主人公をはじめとした登場人物も丁寧に描き好感を覚えます。正直「これが正しい」という答えは出ないのですが、人は常に周りの人によって生かされるということ。それを表す、流麗なカメラワークと合成で周りの人々を一気に見せるワンカットがすごい。
BOXセットが出るなんて、制作者はファンの落としどころをよく知っています。幻の短編「ヒメノプテロ」「LUNA-月-」が収録され、今では簡単に手に入れることのできなくなっている大傑作『テシス』も入っているのですから。映画ファンを自認する方なら必携の一品です。長編3本は既に持っていますが私も買い直します。本当に優れた映画群なのです。 監督アメナーバルはまだ劇場公開長編を4作しか撮っていませんが、それだけで映画の天才の名をほしいままにしている「本物」です。今回のBOXで彼の辿ってきた軌跡を今一度追体験できることでしょう。本国スペインで興業成績の新記録を打ち立てた『テシス』、『バニラ・スカイ』としてハリウッド・リメイクされた絶品『オープン・ユア・アイズ』、その効果あってハリウッドで制作された悲痛なゴシック・ホラー『アザーズ』、そして待望の新作『海を飛ぶ夢』は感涙のドキュメンタリー…。彼が世界に通じる作品を撮り続けてきたことや、一貫して現実と夢・虚構が交錯する幻想世界をテーマとしてきたこと(ドキュメンタリーである『海を飛ぶ夢』でさえ、まさに「海を飛ぶ」素晴らしい幻想シーンが一つの山場なのです)、そして自作の音楽が映画全体に荘厳さと格調を与えていて、作品の高品位から切り離せない要素だということ、等々がよく分かるのです。 彼がハリウッドに招聘された時、彼の才能が食いつぶされてしまうのではないかと1ファンとしてはハラハラしていました。ところがどうして、かえって彼は作家的成長を遂げ、本来撮りたかったのはこういう路線だったのではないかと思わせる新作を見せてくれました。確かに『海を飛ぶ夢』はそれまでのトリッキーで驚愕のラストがある映画とは毛色が異なっています。ヨーロッパには今でも素晴らしい映画と作家が息づいており、特にスペイン映画の充実は見事なものです。その至宝、アメナーバルの素晴らしさをご鑑賞下さい。
ここ数年日本を支配している「泣き」・「感動」ストーリーものとして括ってしまう映画なのだろうか。そうでないとすれば、どこが違うのだろうか。初めから死を予告された話であることは多くのブーム映画と同じだ。けれど尊厳死というテーマを扱っていることから明確なように、死にたいして「泣き」や「感動」でもって了解することをむしろ拒むような映画だ。
人が一人死んで行くことへ感情移入して泣くことはとても簡単なことに思える。けれどそこだけに映画の表現すべてが入ってしまったような消化のされかたでは、余りにも安易だ。自殺にたいして付きまとう宗教観や、尊厳死というテーマについて考えなければならない問題へ向き合うキッカケとしてこの映画は存在してもいる。
そう考えるとむしろ目前の「泣き」や「感動」というのは煩わしい感情ですらある。ラストシーンには感動もない。むしろモノと化していく人間の物質感だけがリアルに迫ってくる。そこへ向かう主人公の精神がどれほど成熟した思考を持ち、のこされた言葉にどれほど深い洞察がこめられていようとも、目の前で物質と化していくモノには何も見当たらない。
死はそんな一瞬で始まり、やがて記憶となって定着していく。けれど生前、主人公と一番深くわかりあい、彼の言葉を出版物にまでした女性は、痴呆症が進み彼の死を判別できないばかりか、彼に関する一切を失っている。このように、「泣き」や「感動」を請け負う重要な演出を、この映画ではいくつも欠如させている。さらに実話に基づくフィクションであることが、かえって現実の不条理さをまとう。
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