この本は現在は革マル派が買収して現代思潮新社と社名が変わっているが現代思潮社から発刊された。だが警視庁は「わいせつ文書」として発行者の社長=石井恭二と翻訳者の渋沢龍彦を逮捕(在宅?)起訴した。これに対して被告側は弁護団に詩人の中村稔(東大法?)を筆頭に特別弁護団長に「戦後文学の影の魔王」(三島由紀夫)埴谷雄高を任命して大岡昇平、芥川賞で埴谷に頭が上がらないカソリックの遠藤周作、丸谷才一、大江健三郎(?)など左右問わず文壇が弁護にたった。ところが肝心の被告の渋沢が遅刻はするは無断欠勤?はするで温厚な埴谷も頭に来て「辞める」と言ったらやっと出廷、渋沢は公判後にみんなで新宿で飲んで騒ぐのが楽しみで来た、と検察をなめきっていた。結果は最高裁で有罪が確定した。罰金。この愉快な渋沢も既に故人。弁護士・詩人の中村稔は今年の文化勲章の下のなんとか賞を頂いたから隔世の感がする。革マル派はサドだのマゾだの嫌いらしく文庫本は出さず河出から出ている。余談だが僕ちゃんは真中さんと則子さんの「おもちゃ」でMっけがあるのでは?愕然としてる。
夢と現実のあわいを行き来しているうちに、一体どちらが夢でどちらが現実なのか分からなくなってくる、そうした味わいにするすると引き込まれてゆく連作短篇集。そこには、モーツァルトの20番以降の「ピアノ協奏曲」を彷彿させる調べがあり、自由の境地に遊ぶ清澄な美しさに魅了されました。 六十七歳というのに童子のように天真爛漫な御子(みこ)こと高丘親王が、数人の従者とともに天竺へと向かう道中の、不可思議な話を記したファンタジー。「そうれ、天竺まで飛んでゆけ。」の言葉をモチーフにして、夢のエッセンスのような幻想譚が展開されていくのですね。久しぶりに再読したのですが、これはやっぱり素敵な幻想綺譚だなあと酔わされましたね。 さらに、妖しい感じが、ドラコニア王国の主・澁澤龍彦の面目躍如たるもの。江戸時代の絵師・伊藤若冲(じゃくちゅう)の、鳳凰を描いた「老松白鳳図」という絵に漂うエキゾチックな妖艶美と気脈通じる味わいに、うっとりとさせられました。 澁澤龍彦の小説では、『唐草物語』『ねむり姫』『うつろ舟』もそれぞれに珠玉の短篇集だけれど、ただ一冊だけとなれば、この遺作を選びます。はるか天の蒼穹へと融け入るが如き、七つの夢幻譚の香り高き調べ。絶品、と言うしかありません。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉1:9)
ソロモンによって語られるあまりに有名なこのテーゼを受け入れるか、否か。
この問いに対する返答が同時に、ユイスマンス『さかしま』の受容をめぐる可否を決する、
そう私は考える。
この世に起きる出来事のすべてに対し「どれも空しく風を追うようなこと」とは思えぬ、
何か「新しいもの」を信じられる人間はたぶん、この小説を読むのに向かない。
本書は、世に倦み果て、人里離れたフォントネエの地で隠遁生活を送ることを決意した男、
デ・ゼッサントをめぐる物語。
とはいっても、物語らしい展開は特にあるわけでもない。世の冗長な小説に苛立ちを覚え、
「この数百ページを煮つめたエッセンスとして、わずか数句のなかに凝縮し得るような小説を
書くことはできないものかどうか」と文中で主人公に語らせてはいるが、あいにくその難題を
ユイスマンス自身がこの小説で克服した形跡はない。
記述の大半に費やされるのは、孤独な住処における彼のひたすらの内省。
一方には、彼の愛した書物、絵画、家具などがもたらす喜悦と夢想があり、あまりによく
知られた種々の批評も展開される。そしてもう一方には、過去の忌まわしい記憶や悪夢、
あるいは病のもたらす暗鬱な苦悩が横たわる。
その結末、消化器の不振に苦しむデ・ゼッサントは、世から隔絶された孤独の日々を断念
し、パリで普通の人々と同様の暮らしを送ることを医師によって強いられる。それは即ち、
彼が忌み嫌う腐敗と汚濁への回帰に他ならず、しかし、回復への道はただそれひとつ。
さて、男の選択やいかに。
正直、デカダンス云々との議論に関しては、私にはその真意を測りかねる。
私の見るところ、この小説の主題はすなわち、「想像力をもって、容易に俗悪な現実に代用
し得る」か、否か、その可能性をめぐる不条理。この世の重力を逃れえぬ人間存在と神の、
あるいは身体と魂の葛藤を描き出したのが最後の一文と私は睨む。そして、それはすぐれて
フランス文学における名作群、いや世界文学史に連なる系譜と思うが、果たして……
渋澤龍彦の略歴を見て、相当に危なくてお堅いイメージを先入観としてもっていたが、まるで落語のような気楽な口ぶりで、テンポよくとんとん非常識なことを読者にお薦めしているそのアンバランスさが秀でて面白い。 書いてあることはたしかに今更では月並み。きっと読者は思うことでしょう、「外国のスラムじゃこんなの日常茶飯だし、最近じゃ日本の高校生だって小悪さして金作ってラリりながら風俗通ってるじゃねぇか、それのどこがスペシャルなんだい!?」と。 しかしそれは違います。渋澤氏が対象としているのは、あくまで大量の情報と明晰な頭脳を有したインテリゲンチャ、知性に堕落が加わることで、独特のなんとも言えない色艶輝く人生芸術が体現出来るわけで、快楽しか知らないガキんちょが非行に突っ走るのとは次元が違います。 とはいっても、この本を読む読者の9.9割は読んではみるものの、納得はするものの、別に没落を真剣に検討しようとは思わないでしょう。そこまの邪教ではありません。究極的に渋澤氏が言っていることは、みんなで足並みを合わせてお手々つないで仲良く一歩一歩慎重に模範的に進むような行き方は見直すべきだという、極モラル的な教育論。人生一度しかないんだよ、もっとぶっ飛んだ生きのイイ生涯おくらなきゃ!ってなモンでしょう(まるで最近のラップの歌詞みたい)。 しかし分かっちゃいるんだが、そこは多くの人が踏み出せない一歩であり、没落・堕落も1つのキッカケとして、自己を可能な限り開放し、死ぬ間際に「ああ、よくやったな俺はぁ」と思えるような満足感、この一瞬の快楽こそ幸福なのだそうで、説明の下手くそな僕がここで少々内容を公開しても、読めば再度納得できるはずです。これはキカン坊をよそおった善良な著です。
きれいな本。
自然石にものの形を発見する。
石といえばつげ義春の『無能の人』であるが、
その寂寞感空虚感はもちろんなく、好物愛に満ちている。
わたしが目を見張った物
「雲母の地下から発見された古書見立て」死海文書でしょうか。
「オレゴンオパール(蛋白石)のシトロンジュレ見立て」プルプル感もある。柑橘系の石か。
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