スコアブックから転記されているようなところも、ところどころに見受けられるけれども、70年前の大会の描写には臨場感がある。
その理由は何と言っても、丹念な取材・インタビューだろう。選手のプレーに関する記憶はやはり鮮明だ。多くの選手の記憶が甲子園での試合を再現している。
そして、特定の人物やチームに偏ることなく全試合を追っていることによっても臨場感が増している。幻の甲子園を初日から追うことが出来るし、相互のチームの視点から検証する効果もある。「運命のホームスチール」なんかは読んでいて息を呑みそうになった。
少し考えさせられるのは、戦時中の野球の位置づけだ。敵国のスポーツと見做されるだろうし、「何も非常時に野球なんて」という声も向けられるだろう。そうした中で野球をし続ける意義とはなんだろうか?意義なんか考えずに没頭することにこそ意味があるのだろうか?
選手たちも自問自答したはずだろうが、明確な答えがあるわけでもない。大規模災害の最中に読んだので少し考えすぎたかもしれないが、結構重たいテーマのような気がする。
よく調べ、真摯に掘り下げてくれた事に感謝の思ひさへ湧いて来る。「幻の甲子園」があった事を聞いた時は、本当に驚いた。昭和十七年の夏、ガタルカナルの激闘の頃にである。本書に書かれた十五試合の熱戦が紛う事なく実在し、詳細丁寧な球譜として再現記録された事に限りない喜びを感じる。苦難の時代にあったノンフィクションに描かれた事実をきっちり受け継ぎたい。
単に野球の話にとどまらず、一つのことに長年打ち込むことで、
野球の技術を超えて、心を磨いてきた男性の物語です。
「野球道」ともいうべき、日本人らしいプロフェッショナルの姿だと思います。
ただ、桑田氏が他の多くの職人的プロフェッショナルと違うのは、
根性論的な「努力のための努力」を明確に否定していることです。
長く働いた人が偉い、といった風潮がまだまだ残る日本社会にあって、
努力の質を問うことはとても勇気のいることですし、
桑田氏自身、現役時代、自分の信念を貫くことで周囲と衝突してきました。
「超効率的」というタイトルからは、楽をするイメージが浮かびますが、
桑田氏のいう努力は、少年野球の指導者が求めがちな非合理的な努力ではなく、
なぜその練習をするのかを自分自身の頭で考え、集中して行う努力であり、
限られた人生の時間を大事にするものです。
ワークライフバランスを実現しつつ、グローバルな競争を戦う
これからの日本社会に必要なのは、まさにこうした努力ではないでしょうか。
筆者は学者でもなく、ましてやジャーナリストでもない。それが却って、テレビや新聞などマスコミから流れる“甲子園”とは違う視点での切り口になっている。例えば東西のストライクゾーンが違うのではないか、甲子園への総出場回数と経験校数をグラフで比較するなど、あまり触れられることのない甲子園と高校野球を考察しているので、新しい発見に満ちたエッセイ集だ。
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