行政法の大御所(東北大教授)から最高裁判事に転進された藤田宙靖氏の回顧録であるが、実に興味深く、一気に読み通した。少しでも法律をかじった人あるいは日本の司法制度に関心がある人には是非ともご一読をお勧めしたい。
特に最高裁に関し例えば以下のような興味あるいは疑問があれば本書は最適な手がかりとなろう。
1. 組織はどのように機能しているか?(どのように案件をさばいているか?)
2. 裁判官はどのような日常を送っているのか?忙しいのか?
3. 違憲判決を出すのに保守的ともいわれるが、どうなのか?
4. 調査官裁判ともいわれることもあるが、実態は?
5. 最高裁としての判断・判決の方向性に変化は出てくるものなのか?、きっかけは?
6. 判決を下す際の基準・考え方はどのようなものか?裁判官と学者のアプローチの違いはあるのか?
7. 個別意見はどのようにして出てくるのか? 等々
いずれにしても本書を通して、“席の冷める暇の無い”ほど忙しい最高裁判事が黙々とその職務に取り組んでいる姿がよくわかる。
藤田氏は自身の仕事振りについては奥様の表現を借り“始めチョロチョロ中パッパ。残りの三年グウタラぺー”と謙遜されているが、実際は極めて精力的に職務に取り組まれたようである。
そしていくつかの重要判決についての考え方(個人意見も添付されている)のみならず、日常難しい判断を迫られるキーポイント(例えば最高裁にとっての証拠評価の問題)についても同氏の語り口には澱みがなくクリヤーであり、読んでいて全く違和感がない。大変説得力に富み、合理的な方であるとお見受けした。
このような形で裁判官としての仕事を振り返るには守秘義務と説明責任の衝突という難しさがあるようだが、退官後短時間で本書を公刊された英断に敬意を表したい。
これまで司法消極主義に立脚すると云われてきた最高裁の近時における司法積極主義への漸進的な転換の内部過程を、光市母子殺害事件、在外選挙権制限や国籍法をめぐる訴訟の具体的な展開をはじめとする豊富なエピソードなどを交えて描き込み、読ませる一書であった。最高裁判事たちや調査官たちの誠実に思索しかつ苦悩する等身大の姿をよく理解することができた。
「国籍法訴訟での津野の奮闘は、そうした文脈の中に置いてみると、「内閣法制局的なるもの」が敗れ始めた時代のエピソードの典型例だと言える」(186頁)。
「どんな少数意見でも、それがどう社会の趨勢を変えたのかをはっきりと検証することは難しい。少数意見は時代を先取りする先見の明と考えることもできるし、社会のほうが少数意見の有無と関係なく、自然と変化していくこともあり得るだろう。少数意見と社会の声とは、鶏と卵の関係のようなものでもある」(209頁)。
「中川は2人の立場の違いを、「時代の変化とともに法律や憲法の意味が変わりうるというブライヤーと、法律や憲法も制定当初の意味に忠実に理解すべきで、それに裁判官が手を加えるべきではない、とするスカリア」と説明する」(217頁、二人の米国最高裁判事を対比した中川丈久神戸大教授の言葉より)。
「問題に気づいた途端に、経済の破綻から生じた閉塞感から、ともかくも変えることがいいことであるといったエモーショナルな雰囲気が支配していたことは大きな不安要素でもあった」(231頁、裁判員制度の導入に関する竹崎博允最高裁長官(当時事務総長)の覚書より)。
最高裁判決が時代を作るのか、時代が最高裁判決を動かすのか。個人的にはどちらかというと後者であるようにも思えるが、いずれにせよこれからの最高裁からは目が離せないと感得させてくれた好著である。裁判や時事に関心ある方には一読をお勧めしたい。
立法、行政とならぶ三権のひとつ、司法をつかさどる裁判官の世界がどのような位階構造になっていたのかを教えてくれます。
日本の司法において、「判事補・裁判官の任用と再任用、転勤、昇任、報酬、部総括指名、人事評価」および「裁判の運用、法解釈などの助言・指導」によって、絶大な権限と権力を握っているのが、「裁判をしない裁判官」であるところの、「最高裁事務総局」です。彼ら、司法官僚というエリートは、判事補時代から選抜され、特定のコースをたどって昇進していきます。こうしたエリートたちによる、司法支配は、従来の法解釈や見解を墨守する傾向を生み出し、ことなかれ主義を蔓延させます。
著者は、こうした司法官僚による支配打破のためにいろいろな提言を行います。基本は、裁判官のそれぞれの独立を確保し、情報公開を積極的に行うことでしょう。概ね首肯できます。
予約していたこの本が本日届き、早速一気に読んでしまった。大変説得力ある内容で、是非多くの方々に読んで頂きたいと思う。それにしても、この志岐武彦氏の行動力には驚いたし、敬服もした。更に、その行動した結果の内容が、読者をして十分理解せしむるものだから凄い。内容の詳細はここでは述べないが、専門家でない方々にも分かり易く、しかも十分な説得力をもって、書かれているところに、志岐氏の素晴らしさがある。また、この本の出版が、山崎行太郎氏が志岐氏と偶然にも隣り合わせになったことが縁というのがまた凄い。現在のような「正義」がきちんと行われていない今だからこそ、両氏のような方々が引き続きご活躍されて頂きたいと願うのみである。
|