この本の出版インタビューを見かけて、
「あれ、この人ってもしかして…」と思い読んでみました。
やはり、水村美苗『本格小説』の東太郎という登場人物のモデルになった人でした。
水村美苗の父である所長のことや、
自分の下積み時代のエピソードが小説の設定に重なることなどにも言及されています。
そして、『本格小説』を読んだ人に東太郎と自分の人生とを混同されることへの困惑があり、
それも本書を出そうと思った理由だということも。
『本格小説』は、いかにも本当にあったことのように書かれていて、
それが大きな魅力の作品なのですが、
本書を読めば容易にわかるように、東太郎の人生と大根田さんの人生は、もちろん、全く別物です。
読んでいると、実在の人物や実際の出来事を水村美苗がどのようにフィクションに取り込んで、イマジネーションをふくらませていったのか、
メイキングがうかがえるようで、その点からも面白かったです。
もちろん、『本格小説』には興味のない人にも、成功者の自伝としておすすめです。
努力に努力を重ねて成功した大根田さんの人生には、とても勇気づけられると思います。
主人公は筆者そのもの、美苗である。
父は会社を辞めて、アメリカ永住を決意するが20年経った今、ボケが進んで施設に入っている。母は年下の男と出奔してシンガポールに住んでいる。
水苗は13歳の時にアメリカに来ているから今は30代前半か。ただ一人の姉、奈苗は離れて住んでいるが、孤独を紛らわすために長い電話をかけてくる。最初はこの長電話の会話で話が進行する。このあたりまでは、私はなんてつまらない本だと思っていた。
ところが、美苗の学校生活を通じてアメリカにおける日本人の地位と言う物が、次第に明らかになったいく。
白人の目から見れば、日本人なんて韓国人とも中国人ともとれる只の「東洋人」に過ぎない。白人と対等につきあっているつもりでも、黒人、ヒスパニックなどと同じに東洋人という枠に入れられた異人種にすぎない。
日常生活において、次々とその事実が明らかになっていく。
姉の奈苗が白人仲間とブラインドデートに誘われて,嬉々としていってみたら、醜い韓国人男性をあてがわれた悔しさ。デートから帰ってきてワンワン泣いた奈苗の悔しさは手に取るように分かる。
アメリカの日本人は日本人社会に住んでいるから日本人なのだ。白人社会に入り込もうとすると、目に見えない壁によって、被差別を認識させられる。
しかし、この孤独感は異国人だけのものではない。アメリカに住む白人でさえ、社会の不条理に対する孤独感にさいなまれている。本書はアメリカと言う社会に住む場合の孤独感をじわじわと見せ付けてくれる。
冨美子が全てを語り終わり、物語が終わりを迎えるときに初めてこの物語が始まると言えよう。実際に読み手は二回以上読むことを余儀なくされる。どんでん返しが起こるというわけではないのだが、にもかかわらず終盤になって漸く得られる新しい視点で、本作品をもう一度確かめたいという気持ちが生まれる故に二回目を読まずにはいられない。
冨美子の生い立ちから始まる語りは、冨美子の不遇な人生の寂寥感で一杯である。それだけでも胸が塞がり、目頭が熱くなるのだが、メインは太郎についての話であり、その話もまたやるせないものだ。しかしそれを冨美子が語るからこそなんとも言えない気分にさせられることが後々わかってくる。
本作品は恋愛物語であるが、日本の戦後社会が背景になっている。富裕である重光家や三枝家のような名家の持っていた品格は、現在の富裕族である久保やその兄嫁の両家には少しもない。金持ちになった太郎が日本に帰ってきて「こんな国になるとは思っていませんでした」と呟き、さらに日本人が「希薄」になったと評するのが妙に悲しい。
恋愛そのものだけでなく、日本人の品格や恋愛観についても考えさせられるロマンスである。
理性と感性のどちらも満足させる素晴らしい小説です。
確かにこの小説は一種のメタフィクションです。これがメタフィクションとして構想されていることはタイトルからも明らかです。あきれたことに、上巻の1/3が長い長い前書きで占められるのですが、これは小説のリアリティを補完する意味でも、また神の視点を周到に排除する意味でも必然的な構成となっています。とにかく、この小説は、ひどく理詰めに作られているわけです。
しかし一方でこの人工的な小説は、信じがたいことに(!)本当に本当におもしろいのです。時間を忘れるくらいおもしろいです(ですからなるべく長い休みの期間に読むようにしています)。どっしりとした時代の流れを背景に展開するよう子と太郎の運命的な恋愛。しかも、その恋愛を語る冨美子や、三枝家、重光家の人々の人生の浮き沈みのなんとおもしろいこと。冨美子が「キャリアウォマン」として働くくだりは、本書でも一番幸せな場面で、とても好きです。この小説の周到な構成は、そのたくらみどおり、小説の「真実の力」を発現させることに成功していると言えます。この小説の人工性は、正当に読者のために使われているのです。
主人公はお見舞には行ってたけど介護はしなかったし、特に姉妹の確執もないと思います。 あたかも親の介護によって、夫や姉と不和になったみたいにとれる帯の表現はいかがなものか・・・で☆1つマイナス。 (ここもツッコミどころの一つなのかもしれませんが)
ずっと以前に、モーパッサンの『女の一生』を読みました。 基本的に同じ内容だと思います。 恵まれた環境で育ちながら、他力本願で自立を拒み、すすんで不幸になる女の話。
自分の不幸は「ママのせい」 夫が不倫したのも「ママのせい」 ならば、その不幸の元凶から離れればいいのに「でも・・でも・・だって・・」を繰り返す。
風が吹けば桶屋が儲かるじゃないけれど、こんなママになったのは『金色夜叉』のせい・・・オイオイっ
私は『女の一生』もこの作品も、著者は“女性たちよ、こんな人生を送るな”というメッセージを送っているように感じました。
一見大人で自立しているようで、実は中高生並みに親や配偶者に依存している中高年は少なくないのかもしれません。 読者という第三者の立場で見た主人公は、ツッコミどころ満載で、笑ってしまうくらいグダグダな女性。 でも、そんな主人公の言動に、自分と重なる部分を見つけ、スッと背筋が寒くなりました。
自分を見つめ直す機会を与えていただいたことに、とても感謝しています。
|