これはもう古典的名作です!女子高という閉鎖された空間の中で、「異性」ではなく「同性」に多少なりとも惹かれた経験のあるひとは多いはず。自分にないものを持っている、少し神秘的で大人びた同性を「好き」になるのはレズとかホモとか手擦れたことではでなく、もっと純粋で切ないもの。あっというまに過ぎ去る学生時代のきらめきの、なつかしいような恥ずかしいようなそんな想いが、洗練された描線の中に生きています。
タイトル「blue」は言い得て妙。 「おんながおんなのこと、好きなんてヤダ~!」なんていう偏見は捨てて、ぜひ読んでみてください。女子高出身のひとには、共感度が高いようです。おんなばかりの環境にいた(いる)ひと、必見。
この映画を見ていてしきりと「捨てる」と「拾う」という言葉を思い出した。
里子は隕石のような石を拾い、神と名付ける。里子はその神に勤務先のセクハラ上司の死と自身の新しい恋を願う。上司は死んでしまい、恋の願いは未完であるが、里子が転職したラーメン屋のコックが案外と恋の相手になるかもしれない。但し、石自体は最後、海に「捨て」られてしまう。
塔子はトマトを「拾う」ことで、難航していた表紙のイラストを描き上げる。但し、注文先に出版社にそのイラストは拒否され、「捨て」られたかのように里子の勤務するラーメン屋に忘れられる。それを里子が「拾い」、秋代にプレゼントする。
秋代は自分自身を「捨て」ていたが、里子にトマト農園に連れて行かれた事で人生を前向きに生きることを始める。結果としてトマト農園のトマトは、思い続けている男友達の家の前に「捨てる」ことになったが、上記の塔子がそれを「拾う」ことで新しい役割を果たす。
ちひろは男に「捨て」られる女性として描かれているが、嘔吐している塔子を「拾う」ことで、新しい人生を目指すことになった。
こうやって書き出すと、「捨てられた」物が「拾われる」ことによって、捨てた人と拾った人が次第に接近していく様が見えてくる。もっともらしい言い方をすると一種の贈与論のような話にも見えてくるくらいだ。
レビューを見る限り賛否両論が多い。理由としては性行為の場面への言及が多い。僕としても、本作のいくつかの場面において違和感があったことは確かだ。但しセックスの嗜好というものは無数にあるわけであり、自身の違和感を以て、この作品の評価を定めるということ自体にはいささか不毛な気もしないでもない。むしろセックスシーンを忘れてこの作品自体を俯瞰してみると、なかなか良く出来ている作品だと僕は思う。特に
池脇千鶴の芸達者ぶりや中村優子の見せる「女の二面性」等の演技力は見ていて感心した次第だ。その意味では本作は有る意味でいささか不当な評価を得ている面もあるかもしれない。僕個人としては、本作はなかなか良く出来た作品だと考える次第だ。