東北大学の若手の助教授が、かなり分かりやすくというか、くだける寸前で「歴史学って結構面白いんで一般の方々もよろしく」と腰を低くして語りかけるような良書。啓蒙書でも、学者さんが書くと「オレがオレが」とつまらぬ新説を中心に資料をブチまけるような場合が多いけど、この人の場合は、自分の主張は抑え気味にして、面白歴史本のブックガイドをするような感じで、歴史関係の良書をどんどん紹介しつつ、記述を進めていくのがうれしい。人柄なんだろうか。贔屓にすることに決定。
この本のおかげで、『青き
ドナウの乱痴気―ウィーン1848年』良知 力と『路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史』角山 榮ほか編、『動物裁判―西欧中世・正義のコスモス』池上 俊一などを知ることができ、すかさず注文してしまった。こういう、中途半端な古い本を捜そうとすると、昔は神田で半日かけなければならなかったけど、いまじゃ、ユーズド市場からすかさずゲットできるのは本当にありがたい。
内容的には1)歴史学者の仕事はどんなもんなんだろうということを塩野七生さんの『
ローマ人』の仕事を批判しながら紹介していき2)果して歴史の真実というのは確定できるのかという問題を従軍慰安婦問題を通して考えていく―みたいな構成。どちらも、非常にバランスがいいというか、逆にいえば物足りないけど、筆者の「コモンセンスを大切にしたい」という主張もわかる。
なんか、久々に新しいジャンルの本をいろいろ読めそうな気がして嬉しい。ぜひ。
歴史における事実、客観性とは何か、というテーマを考える上で参考になる書である。「先の戦争の終戦の日はいつだったか?」というテーマは、たいへんわかりやすく、重要な問題提起となっている。
歴史認識は、マス・メディアによって作られる側面が強いことは否めない。マス・メディアは、常に「意図」をもつものである。とすれば、学問が果たすべき重要な役割のひとつは、複眼的な視点を提供すること、あるいは俯瞰的なマクロ視点と詳細なミクロ視点の両方を往来できる方法論を提供すること、にあるのではないか。歴史認識は、とりわけ対立を生みやすい。その意味で、教養ある人を、「話せばわかる人」と定義していることに注目したい。
「思想信条は異なっても話せばわかるという信頼感なくしては歴史を書くことは難しい。歴史学とは対話の素材を用意し、対話を実践する学問なのである。」(P30)という指摘は、Common Knowledge(知識として獲得した常識)が、Common Sense(経験から身について常識)に働きかける価値を感じさせる。それはCommon(共通の、共有の、公共の、社会全体の)という単語の広がりを意味するのではないか。異なった意見、平行線の議論の「中間者」となろうとする著者の立位置は貴重である。