以前の私は、とにかくいつもいつも怒っていました。
毒を外へ内へ撒き散らしていました。
ある日、なんでいつもこんなに怒っているんだろうと
ネットで検索していたら、初期仏教の教えに出会いました。
気づきと慈悲。
この本のP142にある【今の瞬間の自分に気づくことです】が
怒りの対処法と思います。
「これは、怒りの感情だ」否定も肯定もせずにです。
ただ自分の感情に気づくだけで、軽い怒りでしたら
シャボン玉のようにパッと消えてしまいます。
深い怒りには、気づきと共に慈悲の心の育成が必要と思います。
「全ての生命が幸せでありますように。」
これらを実践していくうちに、きっと何かが変化していくと思います。
否定も肯定もせず、ただ怒っている自分に気づくだけです。
徳川家康はいかにして「神」となったか。最新の研究成果に基づき、その軌跡を追求していく本である。
一向一揆という宗教的政治力の恐ろしさを痛感した天下人たちは、自らもまた宗教的な思想や装置を政治利用しようと試みた。信長や秀吉は、儒仏道ないまぜの「天道思想」を活用しつつ、自らの行いの正しさは「天」の意思により認められているのだと主張した。けれど彼らの時代の終わりと共に、その「天」の思想に対する信憑性もまた揺らいだ。彼らを反面教師とした家康は、徳川家の崇高な血統を永遠に守護し続ける祖先神へと、自らを神格化していくことを求めた。また彼の子孫やその周囲の人間たちも、それを願った。
キーパーソンは天海である。現世肯定的で世俗のイデオロギーとして機能しやすい天台本覚思想を巧みに応用しつつ、天海は家康を「権現様」として祭り上げることを推進した。吉田神道のように「明神」として祭るのは秀吉の前例からしてダメであり、山王一実神道による新たなる意味づけに価値が見いだされたのである。だが、神格化の思想や装置はそれだけに止まらなかった。祐天ら浄土僧たちが家康を阿弥陀仏の化身あるいは被奉仕者として語ったり、生身仏のような神像や各種の偽書等が製造されることによって、家康という存在は様々な宗教的装いをその身にまとい、一つの「神」と化した。
こうして神格化された家康(権現様)−徳川家は、近世社会においては天皇以上の権威を認められていた対象ではなかったか、と著者は仮説的に述べる。政治権力は無論のこと、その武力と不可分の神聖性が、天皇家も及ばないほどのパワーをふるいつつ、近世的な「神国・仏国」を成り立たしめていたのではなかったか、と。本書を通読し家康=「神」像創作の多彩な戦略を知った上で考えてみれば、このような仮説にはなるほど説得力があるな、と感じ入った次第である。
この本を読んだら、とっても東照宮に行きたくなりました。 修学旅行では素通りしていたところを この本片手にもう一度見直したくなります。
私、今まで日光東照宮に行ったことがないのですが、この本を読んで、今春、時間を作って一度、参宮したいなぁと思っています。某ホラー系風水ガイドや、ぱくり専門博学作家と異なり、さりげなく、淡々と東照宮の背景にある宗教、芸術、文化を語るあたりはタダモノではないと思います。電車通勤の方は、ぜひ、本書をポケットに入れておかれることをお勧めします。どこから読んでもふーんと納得できるエピソードがちりばめられており、満足の一冊と思いますよ。
風水師の仕事をしています。この本を手にした時感動しました。兼ねてから自分で課題としていた結界について分かり易く掲載されていたからです。様々な風水書を見て勉強してみたのですが、この本が1番納得できました。江戸幕府の宰相、天海僧正がどのような風水術を用いて江戸の街を護ったのか?歴史的背景と太閤秀吉の祭祀に行われた結界、平城京から平安京への遷都の時に用いられた結界など感動物です。陰陽道を目指している方にもオススメの1冊です。
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