1993年リリース。フー・ツォン(傅聰 / Fou Ts'ong, 1934年3月10日
上海 - )は、1955年の第5回
ショパン国際ピアノコンクールで第3位。併せて
ポーランド・ラジオ賞(マズルカ賞)を受賞している中国出身のピアニストだ。父親は翻訳家・文学者の傅雷(フー・レイ)なのだが、文化大革命の犠牲となり、フー・ツォンは、母国に帰るのを諦め、1960年より
ロンドンを拠点として演奏活動を開始している。
彼のピアノへの評価として最も有名なのは、ヘルマン・ヘッセの『フー・ツォンこそ
ショパンを正しく演奏できる唯一のピアニスト』だという言葉だろう。特に、この
ショパンの『ノクターン集』を聴くとその言葉の意味がわかると思う。このアルバムに到達し、聴いた後では、すべての
ショパンの『ノクターン集』は色褪せて感じてしまう。それほどの感動を秘めたアルバムで、フー・ツォンの
ショパンを聴かずに終える人生は悲しい、と断言しよう。
聴きどころは満載なのだが、特に最近人気のある『Nocturne in C sharp minor (1830)』がまず素晴らしい。『夜想曲第20番「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」遺作』と呼ばれることの多いこの曲は、映画『戦場のピアニスト』でメイン・テーマとして使われて、一挙に人気が出た感じだ。この曲をこれ以上ないと思えるほどの情感で弾く。素晴らしい。
そして、『Nocturne in E flat major Op.9 No.2』が素晴らしい。
ショパンのノクターンの中でも傑作中の傑作であるこの曲は、フィギィア・スケートでも多用されている(ただ、その場合にただ
ショパンの『ノクターン』としか表記されないのはいかがなものかと思う)。この曲をこれほどに弾けるピアニストは他にいないのではないかと思う。強弱だけでなく音の質感までが暖かく、そして悲しい。
もしこのアルバムを手に入れるチャンスが有るならば、最早値段の問題ではない、『一生の感動』の問題だ。絶対に手に入れるべきだ。それほどの名盤である。
新聞でこのアルバムについての記事を読み、youtubeで演奏を聴いた。
その美音と、音楽の広がり、深さに驚いた。
ハイドンのソナタ集は、グールド、ポゴレリッチ、ホロヴィッツ、シフ、リヒテルのものを持っている。
グールドのそれは、色々な意味でグールド・ミュージックというしかないものだが、
ポゴレリッチのハイドンは、スカルラッティの演奏でも聞かれた美点が生きていて、良盤。
ホロヴィッツ、シフのアルバムも、彼らのピアニズムを堪能できる名作、名演。
だがフー・ツォンの演奏は、それらとはまったく異なる場所で生まれている。
最初に収録されている31番の第1楽章は堂々としていて魅力的だが、
第2楽章のアダージョの深い味わいは、雲間を揺蕩っているよう。宙に浮いているのではなく、
木漏れ陽の間を歩いているよう。陰影と色彩が交差する。34番から始まる2枚目も素晴らしい。
何度くり返し聴いても、新鮮で、親密。解釈や技巧を超えて、音楽が鳴っている。リヒテルやポリーニなど、
ロシアや東欧まで含めた西洋の音楽家たちとはまったく違うピアニズムがここにある。
録音は
ロンドンの教会でなされているが、マイク・セッティングがピアノから離れているので、
その場の響きをひろっている。豊かな残響も魅力のひとつ。
音楽との一体感、ドライブ感、美音。一級品のアート作品が持つ特徴を供えた作品。
フーツォンの話だけでなく、文革の嵐の中を芸術家が生き抜き、リーユンディのような世界的ピアニストを排出するに至るまでひそかにバトンを繋いでいくその過程が克明に書けており一読に値する。
文革のような厳しい規制の中にあっても一握りの生き残ったピアニスト・教育者によって芸術が受け継がれていく。
感動的な物語だった。