第一巻の後書きに書いてありましたな。「エヴァンゲリオン」からこぼれ落ちた自分の感情をつなぎ合わせる…。無責任な一読者が判断することじゃないんだろうけど遠藤氏の目的は達成できたと思います。どこまで作者個人の意志を反映できたかは不明ですが(もしかしたら担当の編集者の過剰な介入があったかも…)きれいに完結して一安心といったところですわ。 思えば主要なキャラだと思っていたら読んでいるこっちがたまげるような凄惨な死に方をしたり(もう、マナが死んだ頃はなれっこ)登場人物の背景はおろか、名前さえも大混乱したり…あまり受け手に優しい作品とは言えなかったけどきちんと終わったのは送り手の誠意と自分は受け取りました。 こういう優しさはどっかの偉いアニメの監督さんも見習って欲しいな。「媚びる」と「わかりやすくする」、「自分勝手に表現する」と「あえて突き放す」、商業作品として考えた場合かなり意味が違ってくると思うんですよ…って、これは余計なお世話か。 まぁ、時間があったら最初から読み返してみましょうか。未だ行動の理由がよくわからない人達がいるのでね。
すんごいねー、遠藤さん。 短編1と合わせて買ったけど、ため息モンやわ。 メジャーでないのが不思議。
ラストで喬の方から廻に話しかけてくるのを見てぐっときた。
少年時代に同じ空手で切磋琢磨したにもかかわらず
成長してからのストーリーになってすぐに
「昔からあいつのことはきらいだった。」
と、言い放った喬。
しかし今回、試合に負けたとはいえ、
勝負には勝った感のある廻を認めた。
さすが遠藤さん。かっこいいぜ!!
一巻におけるメグルの、「こんなご時世ではとにかく打ち込める物を持っとかないとやばいので」
といささか軽くつぶやかれた感のあるモノローグが、
決して看過できないような状況になっている気がする中での7巻です。
今回は主人公のメグルは一歩後ろに引いて、アクションシーンは女子選手が中心に展開されます。
この女子選手達(マキちゃん、桃子ちゃんだけでなく相手の選手も含め)
が格闘に「打ち込んでいる」姿が丁寧に描かれ、それだけで(いささか大げさに言えば)感動を誘います。
それどころか、ちょっと寄り道中の勇大君やお兄さん達の場面もグッと来るものが…。
ここまでくると、自分が年をとって感動屋になっただけなのだと思ってしまうところですが、
決してそれだけではないはずです。
この漫画の最大の魅力は、打ち込める物を持っている人が真摯にそれに打ち込む様を誠実に描いているところにあって、
そのことこそが、それほどまでに打ち込むものを持っていない私の心を打つのです。ちょっと情けないですが。
という訳で、7巻も「打ち込める物を持った」人たちの魅力一杯であり、
存分に楽しませていただきました。
EDEN(1) (アフタヌーンKC)をちゃんと終わらせた
遠藤浩輝は偉いな、次は何するのかな、と思っていると、
「グラップラー刃牙」みたいなタイトルの、「オールラウンダー廻」
という格闘漫画が始まった。
格闘技「修斗」を始めた高校生、高柳廻とその周囲の若者たちの青春群像劇。
自らも修斗体験者で、綿密な取材を続けている作者が、リアルな内容で試合の様子を描写する。
キャラクターたちが人間臭くていい。
自らの現実の生活があって、それと格闘技との間で悩んで、
また練習して、仲間と喧嘩して、仲良くなって、そして強くなっていく。
テンポよく、面白く描くので、読んでいて飽きがありません。
リアリティーを崩さないぐらいに、主人公の廻には「ちょっとした」才能が
あるんだけど、でも試合では練習した成果が全てで、
応援したくなる主人公ですね。
ここまで地味なんだけど、
もうひとりの主役のような、山吹木喬が、EDENのケンジのような、
遠藤浩輝短編集(1) (アフタヌーンKC)に収録された
「プラットホーム」の主人公を髣髴とさせるキャラクターで、
ヤクザ関係者として、EDENの遠藤浩輝らしく、作品の世界観を壊さないバランスで
ノワールを繰り広げ、作品の賑やかしとなっています。
個人的にはEDENのケンジが好きだったので、喬の登場は嬉しかったです。
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