曲数の多さにもビックリでしたけど、中身も凄かったです(≧∇≦)ノ彡
london bridge 目当てで購入しましたが、全ての曲で全部違うファーギーが出てきて、
違う人が歌ってるみたいにも聞こえたし、今までのイメージと全然違う、バラード調の曲や
ポップス系の曲まで歌いこなしていたし、本当に聞きごたえのある1枚でした★
この1枚はかなりお気に入りですヾ(*^▽^o
なんせAll I want for Christmas is --- you.ですよ。I don't care about present.---I don't want a lot for Christmas.---Santa Clause won't make me happy with a toy on Chrstmas day.ですよ。Saint Nickもびっくりの歌詞ですよね。クリスマスの定番っていうから、日本にもクリスマスが根付いたんですね。
トリュフォーは音楽の使い方にはかなりこだわりをもっていた。 際立って正統なスコアを書くことで知られるドルリューの音楽が このCDの多くを占めているが、音楽は映画から独立してはならない というトリュフォーの考えを感じることはできるだろうか。 個人的に気に入っている「恋のエチュード」からは4曲が収録されたが、 主人公3人が雨よけのために洞窟のなかで「レモン絞り?」をするシーンに 流れた曲が入ってなくて少しがっかり・・・。しかし、メインテーマにあたる 曲はほとんど網羅されているから、トリュフォー映画好きの方にはいいかも。
前作からはや3年半、製作期間1年半。彼らのブログなどで、今までになく細部に渡り丹念に丁寧に時間をかけて作り込まれていることが伝わってきたので、期待が大きかった反面、オーバー・プロデユースによるマイナス面の不安もあった事も確かだ。
どうやらその不安は杞憂に終わったようである。
このアルバムは間違いなく最高傑作であり、彼らは日本ポップス史上に永遠に語り継がれるべき金字塔を打ち立てたと言っても過言ではないだろう。
私は、過去にこれだけ美しく、幻想的な作品を知らない。
昨今のJ−POPでは、ヒット曲狙いで王道進行の循環コード(Fmaj7,G7,Em7,Am)ばかりで、少々耳障りになってきているのだが、この作品は転調に次ぐ転調。複雑なコード進行に儚い美しさを感じるメロディーがくっきりと浮き出ている。
1曲1曲を納得のいくまで作り込んでいったんだろうと思う。
サウンドプロダクションはとてもシンプルで音数も少ないのだが、その1音、1音がとても効果的であることが聴き込むうちにわかってくる。
それだけではない。
永井祐介と榊原香保里のヴォーカルは今までのLampでも充分魅力的だったが、このアルバムでのソロ・パート、そしてコーラスワークは前作までと較べて格段に進化している。
どれだけ歌い込んだものであろうか。
バック・ヴォーカルの石橋悠三が加わったことで、幻想的な領域まで昇華しているようだ。
詞作面でも、前作あたりから顕在化した耽美的な詞がさらに練られ、素晴らしいものになっている。このアルバムを傑作たらしめているのは、この部分も大きい。
美しいブックレットの歌詞を読みながら、出来れば家で大音量で聴いて欲しい。
まるで11編の優れた連作短編小説のようである。
自身のブログで染谷太陽がこう言っている。
「もし出来れば、試聴していまいち良くなくても、是非買って帰って家で何度か聴いてみてほしい。そして、聴くときは、いつもより少し音量を上げて聴いてみてほしい。そんな作品です」
このアルバムの真価は11曲通しで聴いてはじめてわかるものだと思う。
「家で」というところがキーポイントで、恥かしながら車で6回聴いてもピンとこなかったのが事実だ。
昭和50年代、ドイツ駐在の二人の商社員が「発見した」エリーゼ・ヴィーゲルトは、金髪の乙女ではなく、ユダヤ系の年上の人妻であった。成瀬正勝の舞姫論に始まり、竹盛天雄の石黒日記解読から始まった「エリーゼ追跡」は、アサヒテレビ「百年の恋」で意外な展開を見せた。ベルリンの「鴎外記念館」理事、ベアーテ・ヴェーバー女史は、積極的に「人妻説」支持したが、女史の日本での講演は雑誌「鴎外」による熱烈な鴎外マニアの反発もかった。
ベルリンで女史から直接話を伺う機会もあった評者は、千駄木の「鴎外記念館」で「エリーゼ」が鴎外に贈った「モノグラム」を見て、その精緻さと丁寧さに心打たれた。それは、まさしく東洋の若い留学生に憧れ、結婚の約束を信じ、高価な一等切符でかけつけた乙女のものと思われたのである。しかし、どのような研究書を読もうとも、もはや、この謎を解き明かすことは不可能と思われた。
評者の個人的心証で言えば、「エリーゼ」は、鴎外の母、峰子を思わせるような、凛とした、勝ち気な、しっかりものの娘であるはずだった。これは、鴎外がふと漏らした一言を知る家族の手記と、短編「最後の一句」の「いち」という少女の面影と重なるものである。
2000年、法学者、植木哲氏の「新説 鴎外の恋人エリス」(新潮選書)が発表されると、状況は一変した。植木氏は「エリス」を追跡してついに「ルィーゼ・ヴィーゲルト」までたどりついたのである。これは、ベルリンの古い土地登記簿にあたる地道な調査の成果であった。
今野勉氏のこの本は、これらの様々な謎をほぼ解き明かしてくれるように思える。つまり、一定の合理的な解釈と説明を試みられており、基本的にうなずけるものである。また、三十年以上の時間をかけてこの問題をあたためてきた著者の誠実さにも、感動すべきものがある。
しかし、この書物の刊行直後、六草いちか氏により、もう一つの「エリーゼ像」が提示された。六草氏の研究も説得力のあるものであり、何より、15、6歳の「エリーゼ」が現実的なのか、という根本的な問いかけがある。
アマゾンのレビューは、六草いちか氏の研究を画期的と捉えるものが多い。しかし、評者は「ちょっと、待って欲しい」と感じている。特に、「舞姫」と「エリス」の混同は避けなければならない。比較文学論的に言えば、「舞姫」は「貴公子と町娘の悲恋」といったパターンで作られた作品である。「太田豊太郎」も、もちろん「鴎外」ではない。森林太郎本人でなければ分からないことも、まだまだ多く、結論は出せないのである。
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